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2022.12.5

征夷大将軍

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 何にでも興味を持って学ぶ事が大事だと言う話でした。

 

そこで 今日は 徳川家康が 何故 征夷大将軍に固執したのか??

と言う話になりますが

そもそも征夷大将軍ってなんなのか?の話に進みます。

そして もう一つ疑問が浮かぶと思うのですが

徳川家康は 関ヶ原の戦いで 日本を統一したのですから

誰の目からみても 日本最高の権力を手にしたわけですから

別に 征夷大将軍なんて肩書は必要ないと思う人が多いと思います。

それなのに わざわざ 出自まで変えて 源の血筋であることを証明するために

名前まで 徳川としているのです。

 

そんなに 征夷大将軍と言う位は凄いのでしょうか??????

そもそも

征夷大将軍とは何か?ですが、

これは、朝廷の令外官のひとつで、朝廷に従わずに対立していた東北地方の部族「蝦夷」を「征討」するために、天皇の軍事代行者として任命された役職だったのです。

 

ここで言う 征夷大将軍の 夷とは何なのですが、読み方を変えれば 夷を征服するとなりますね、

この夷狄の定義を調べてみますと、

未開の人。えびす。野蛮人。東夷北狄

外国人を,軽蔑したり敵意をもったりして呼ぶときに使う語となっています。

 

当時東北地方が未開で野蛮人が居たので それを夷狄と呼んでいたのですが

今であれば 同じ日本人なのですから こんな事を言おうものならば 差別だ人権侵害だと

いう事になってしまいますが

その野蛮人と言われる人を制圧に行く人の責任者を 征夷大将軍と呼んでいたのです。

 

ただし、

最初から征夷大将軍と呼ばれていたわけではありません。

古くは飛鳥時代末の709年に巨勢麻呂が「陸奥鎮東将軍」に任命され、

その後も「征夷将軍」「征東将軍」「征東大使」など時期によって呼称もまちまちでした。

 

また当時は太平洋側を進む軍を率いる者を「征夷将軍」、

日本海側を進む軍を率いる者を「征狄(鎮狄)将軍」、

九州へ向かう軍を率いる者を「征西(鎮西)将軍」と呼び分けていたのです。

 

陸奥国の蝦夷を征討する軍を率いる将軍が「征夷大将軍」と呼ばれるようになったのは、

奈良時代末期以降の事だったのです。

 

しかし、時代とともにそのイメージは薄れ、鎌倉時代になると幕府を開く武士のトップという地位に様変わりしました。

源頼朝が征夷大将軍に就任したお陰で鎌倉に幕府が開かれましたが、

武士の政権のことを何故幕府と呼ぶのかと言いますと、

 

幕府という言葉は

元々中国の言葉で幕が武士の本陣、府が役所という意味があったのです。

つまりこの言葉を合わせると幕府は武将が王や皇帝に代わって軍を指揮する役所という意味という事になり

これは 今の内閣のような組織だという事になります。

 

歴代の武将が 武力では日本一になっても その人が日本を統治すると言う事にはなりませんでした、

きちんと 権威ある人から 「あなたが日本を統治する人です」との

お墨付きが必要だったのです。

 

それで 朝廷を倒すのではなく 朝廷から ナンバーワンの称号を得たうえで

幕府を開く為には 征夷大将軍の称号が必要だったので

徳川家康も なにがなんでも日本統一の為に 征夷大将軍の称号が必要だったと言う事だったのです、

 

この幕府と言う組織は 幕末の王政復古の大号令によって廃止されます。

その原動力になったのが

御三家の中の あの家だったのです、、、、。

 

あの家とは??????

 

それは?????

 

明日に続く、、、。

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