
EXECUTIVE BLOG
2025.8.21
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 終戦直後の二人の総理大臣の話しでした。
1945年8月15日、
日本はついに無条件降伏を受け入れ、終戦を迎えました。
玉音放送によって敗戦を知った国民は、涙し、呆然とし
あるいは怒りを抑えられず複雑な感情を抱きました。
しかし戦争が終わったといっても、
すぐに平和な社会が訪れたわけではありません。
国土は焼け野原、都市は瓦礫に覆われ、食糧不足と住宅難、
そして海外からの引揚者の急増が社会に大混乱をもたらしていました。
こうした状況の中で、多くの人が疑問に思うのは
「では、終戦の日に陸軍省や海軍省はどうなったのか」
ということです。
戦争を指揮してきた軍の省庁が、
玉音放送の瞬間に消滅したのではないかと想像する人もいるかもしれません。
しかし実際にはそうではなく、
終戦直後も陸軍省・海軍省は存在し、陸軍大臣や海軍大臣もその職にありました。
なぜなら、数百万に及ぶ将兵を復員させ、
海外からの軍人や民間人を帰還させ、
膨大な武器を処理するという大仕事が残っていたからです。
敗戦直後に誕生した東久邇宮稔彦王内閣には、
まだ陸軍大臣・海軍大臣がいました。
陸軍大臣は下村定、海軍大臣は米内光政で、
下村は阿南惟幾陸相の自決後、その職を引き継いだ人物で敗戦処理に尽力し、
米内は戦前から和平派として知られ
最後の海軍大臣として軍の武装解除を指揮しました。
その後の幣原喜重郎内閣でも陸相と海相は残り、
引き続き武装解除と復員を担いました。
つまり戦争をしないと決めた直後であっても、
実際には軍の組織をすぐになくすことはできず、
戦後処理のための軍省が一定期間必要だったのです。
しかし連合国軍総司令部は
日本の民主化と非軍事化を徹底する方針を持っており、
その一環として陸軍省と海軍省は廃止されることになりました。
1945年11月30日、閣議で陸軍省廃止が決定され、
翌12月1日に正式に廃止、海軍省も同日廃止となりました。
ではその後の復員業務はどうなったのか、
そこで登場したのが第一復員省と第二復員省です。
第一復員省は旧陸軍の復員や海外引揚者の帰還を担当し、
第二復員省は旧海軍関係を引き受けました。
名前は違っても実際には軍の残務処理を担う官庁として機能したのです。
ここで「復員」という言葉が大きな意味を持ちます。
単なる解散ではなく
兵士をきちんと故郷に戻し社会に受け入れるという過程を重視したのです。
これは単なる軍事処理ではなく日本社会全体の安定を左右する大事業でした。
当時の復員の光景を思い浮かべると戦後の混乱がより実感できます。
港や駅には復員兵を迎える人々でごった返し、
痩せこけた兵士たちが軍服のまま列車に揺られて帰郷しました。
中にはシベリアに抑留され帰国が長引く者も多数いました。
彼らは何年も帰れず極寒の地で過酷な労働に従事し、
こうした抑留者への対応も復員省の大きな仕事でした。
また海外の占領地や満州からは膨大な民間人が引き揚げてきました。
引揚船は満員で命からがら日本に戻った人々は
故郷に帰っても家を失い食糧もなく生活再建に苦しみました。
復員省は彼らを受け入れ生活支援を行う必要がありましたが
資源は限られ混乱はなかなか収まりませんでした。
復員業務はあまりに膨大であり、
陸軍と海軍で分けていては効率が悪いとの判断から、
1946年6月15日に第一復員省と第二復員省は廃止され、
一本化されて復員庁が設置されました。
復員庁は内閣直属の外局であり、
旧軍人の復員、海外引揚者の帰還、捕虜や抑留者の対応、
そして遺族への援護などを一手に引き受けました。
この時期の日本社会は
「復員・引揚ラッシュ」と呼ばれるほど多くの人が海を渡って帰国しました。
その数は軍人・軍属だけで約600万人、民間人を含めると数百万人にのぼります。
駅や港で繰り広げられた人々の再会の喜びと同時に、
故郷を失った人々の涙も数え切れないほどありました。
復員庁はこうした人々の生活を支える最後の砦でした。
復員庁は2年ほどでその役割を終え、1948年1月1日に廃止され、
その業務は厚生省引揚援護局に引き継がれました。
厚生省が担当することで、復員・引揚者の支援は
「軍事」から「福祉」へと完全に性格を変えていきました。
以後、戦後補償、戦没者遺族援護、シベリア抑留帰還者の対応、
遺骨収集といった仕事は厚生省、現在の厚生労働省が担い続けています。
戦後の長い年月を経て
平成以降も厚生労働省は遺骨収集や慰霊事業を継続しており、
これはまさに復員省や復員庁の流れを汲むものです。
つまり終戦直後の軍省廃止と復員の制度化が、
その後の日本社会の平和と福祉の制度へとつながっていったのです。
終戦の日に軍が突然消えたわけではありません。
陸軍省と海軍省はしばらく残され、
きちんとした手続きを経て廃止されました。
その後は第一復員省と第二復員省が引き継ぎ、復員庁に一本化され、
最後には厚生省へと移管されました。
こうした流れは敗戦の混乱を秩序立てて処理するために不可欠であり、
戦後日本が平和な社会へと移行する上で重要な役割を果たしました。
焦土からの出発は容易なものではなく、
復員兵の帰還、引揚者の受け入れ、抑留者の帰国、遺族の援護には
数え切れない苦労と涙がありました。
しかしその過程で
日本は軍事から福祉へ、戦争から平和へと
大きく舵を切ることができたのです。
今日の私たちが「戦後」と呼ぶ時代の始まりは、
まさにこうした復員の道のりの中にあったといえるでしょう。