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2025.6.20
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 楠木正成の話しでした。
今日は 彼の戦いぶり等についてに進みます、、。
楠木正成は、日本史において「忠義の鑑」とも称される英雄です。
彼の生涯は南北朝の動乱という厳しい時代にあって、後醍醐天皇への一途な忠誠と、
非凡な軍才、そして最期まで志を貫いた生き様で、今なお人々の心を打ち続けています。
河内国と言う現在の大阪府南部に生まれたとされる正成は、
もともとは在地の豪族に過ぎませんでしたが、鎌倉幕府の支配に対して反旗を翻した後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵します。
彼の名前が歴史の表舞台に現れるのは、「千早城の戦い」です。
この戦いは、
鎌倉幕府の命を受けた幕府軍が、大軍をもって正成の籠る千早城を攻めたものです。
城そのものは小規模でしたが、正成は地形を巧みに利用し、
奇襲や陽動を繰り返して幕府軍を翻弄しました。
山を滑り落ちる大石を使った防御や、偽兵を使って敵を攪乱する作戦など、
まるで物語のような戦術を用いて、数に勝る敵を撃退し続けたのです。
この千早城の籠城戦によって、幕府の権威は大きく揺らぎ、
やがて1333年、後醍醐天皇の討幕が成功、鎌倉幕府は滅びました。
正成の功績はこの時、誰の目にも明らかでした。
しかし、幕府が倒れた後も平穏な時代は訪れません。
後醍醐天皇は武士を軽んじた政治である建武の新政を行い、多くの不満を生み出します。
その混乱の中で台頭してきたのが、かつての討幕の協力者であった足利尊氏です。
尊氏は天皇に反旗を翻し、新たな政権を打ち立てようと動きます。
正成は、この新たな脅威に対しても、ただ一人、後醍醐天皇への忠誠を貫こうとします。
そして迎えたのが、1336年の「湊川の戦い」です。
足利尊氏と新田義貞の軍との大決戦の中、正成は義貞と共に兵を率いて戦いますが、
形勢はしだいに不利となっていきます。
戦力差が大きく、味方の兵は次々と討たれ、敗北が濃厚となる中、
正成は弟の正季と共に自害を選びます。
その最期の言葉は「七度生まれ変わっても朝敵を討つ」というものであり、
その言葉の通り、死してなお正成の忠義の志は語り継がれていくのです。
この湊川の戦いに至る前、正成は最後に一人息子である楠木正行に別れを告げたとされる場面があります。
「桜井の別れ」として語り継がれるこの逸話は、
現在の大阪府三島郡島本町の桜井駅付近での出来事とされ、父・正成が自らの死を覚悟しながらも、
まだ若い正行に「決して無駄死にすることなく、天皇に忠義を尽くすのだ」
と静かに諭す場面として知られています。
子を思う親の情と、武士としての覚悟が交差するこの場面は、
戦国や幕末の志士たちにも多くの感銘を与え、
やがて明治時代には教育勅語の精神の体現者として取り上げられるようになります。
正成の忠誠は、ただの主従関係にとどまらず、「義」のために命を惜しまぬという武士道の原型ともなりました。
湊川で果てた正成の死後、足利尊氏は室町幕府を樹立し、政治の主導権を握りますが、
正成の名は後の時代にも脈々と語り継がれます。
江戸時代には忠臣の鑑として知られ、そして明治以降、国家に殉じた忠義の士として、
その銅像が皇居前に建立されます。
馬にまたがり、遠くを見つめる正成像は、まさに国家の行く末を見守るかのような姿で、
今も多くの人々に親しまれています。
楠木正成の人生は、
たとえ小さな勢力でも信念を貫くことで時代を動かすことができるということを教えてくれます。
そして、たとえ敗れても、
信じるものに命を捧げた人の思いは、時代を超えて語り継がれてゆくのです。
では 正成死後 の話は????
明日に続く、、、。