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社長&顧問ブログ

2020.9.28

悲劇の駒姫

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

ITへの道から大きく逸れて

いつの間にか歴史の話になっていますが

 

私は決して歴史が好きだったわけではないのです

 

そもそも ITを学んで 特許を取得してビジネスモデルを構築して行き

その ビジネスモデルを全国へ広げる為に各地を回ることになったのですが

 

訪問させて頂いた時に 一番役に立つことは その地の歴史を 地元の人以上に

勉強して行くと 相手から早く信用を頂けたので

先ず 訪問先の色々な出来事を調べて行くうちに 歴史を学ぶことになったのです。

 

福井県に行った時は ここは 当初 北の庄と呼ばれていたのですが

北の庄の北は 敗北の北を連想されて 縁起が悪いという事で

城の中にあった井戸 その名前が福の井と呼ばれていたそうなのですが

それから転じて 北の庄を福井とすることになったそうなのです。

 

訪問する前には このような事を知って行くだけで 地元の方に受け入れられやすいと言うことで 各地の歴史を学ぶことが歴史に興味を持つ始まりだったのです

 

山形に訪問した時も ここは 昔 最上家が統治していて 

その時の悲劇の物語があるのを先に学んで行ったのです

その内容は

悲劇の美少女「駒姫」の話です。

駒姫は伊達政宗の伯父であり出羽国の大名である最上義光の次女として、

1581年に生を受けます。

東国一の美少女といわれ、時の関白・豊臣秀次に繰り返し所望され、

「おいまの方」として側室に上がることになりました。

ところが、長旅を経て、やっと京都に着いた頃、

秀次は秀吉の命で切腹という悲運に遭うのです。

側室として秀次に会っていないにもかかわらず、駒姫も処刑との命が下ります。

この事態に、義光は八方手を尽くして必死の命乞いをしますが、その思いもむなしく、

159582日、牛車に乗せられ引き回しにされた後、

駒姫は凄惨極まる方法で刑場の露と消えてしまいました。

一説には、義光が淀君を通じて助命嘆願を行い、秀吉も「鎌倉で尼にせよ」と早馬を走らせたが、一足遅かったとも伝わります。

処刑された遺体は幼子も含めて次々と穴に投げ込まれ、「悪逆塚」と彫られた石が据えられました。

それで義光夫妻の嘆きようは尋常ではなく、間もなく駒姫の母である大崎夫人が後を追うように亡くなってしまいます。

義光の恨みは深く、関ヶ原の戦いでは豊臣方に敵対する東軍に属し、その功績により出羽山形藩の初代藩主となったのです。

 

今の時代の様に情報が早ければこのような悲劇は生まれてなかったのです。

 

この駒姫の菩提寺となる寺が 山形市内にある 専称寺と言う寺なのです。

 

この悲劇の姫の墓が専称寺にあるのですが

意外に知られていないのが 本堂の4隅にある力士像の木造なのです

 

この木造の作者は 日光東照宮で有名な 左甚五郎の作なのです。

 

知れば知るほど色々な話が出て来ますね

 

そして  山形城は 初代藩主は この最上家ですが 

最後の藩主は 天保の改革で有名な 水野忠邦なのです。

水野は老中まで上り詰めますが 最初は 九州の唐津藩の藩主でした

 

では 何故唐津藩の藩主が老中まで上り詰め 最後に 山形藩の藩主となったのか?

 

天保の改革は 成功したのかしなかったのか?

 

次々に色んな疑問が湧いてきますよね?

またまた幕末の話から あちこち話が逸れてしまいましたが

 

各地を営業する時は 地元の歴史を学ぶことが大切だと思った次第です

 

こういう勉強をしておけば 先日書いた 高知での一言

「高知と言えば坂本龍馬でしょ? 」の一言が 場をシラケさせずに済んだのかもしれなかったのです。

 

歴史は過去のものではなく 現在に繋がっていることを改めて感じます

 

という事で

明日は

元の話に戻れるのか?

 

そもそも元の話は何だったのか????

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