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社長&顧問ブログ

2024.2.22

戦わざれば亡国、戦うもまた亡国

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日は 広島と長崎に 原爆が落とされた話でした。

戦う余力もなくなりかけた日本に あの時期 終戦を早めると言う理由だけで

原子爆弾を落としたのでしょうか?

そして 多くの罪もない市民を巻き込む必要があったのか?? と思ってしまします。

 

そう考えると やはり 2種類の原子爆弾を市民が多くいる都市に落としたのは

人体実験だったとしか考えられないと言う事になりますが

 

このような意見ももはや風化してしまっていて あの時の日本は 悪かったかからだと

戦後は教育されている気がします。

 

そもそも 工業大国米国を相手にして 日本は戦うべきだったか??? と

言う意見もありますし

 

海軍は 太平洋全域を抑える必要があったのか??? とも言われています。

 

それが 何故無謀ともいえる戦いをせざるを得なかったのか?? をあまり考えた事が

ないかもしれません。

 

それに 天皇は 終戦の命令をだしたのに 何故 戦争を始まる事を止めなかったのか??? と

これが 後に天皇陛下の戦争責任問題と言われる事になるのです

 

丁度このブログを書いている翌日は 天皇誕生日ですが

こに時の天皇陛下は 昭和天皇です。

 

太平洋戦争開始の日は

昭和16年12月8日ですね。

 

その年の9月6日の御前会議にて 天皇陛下から意見を求められて

発言した人物がいます。

 

その人物とは 永野修身海軍軍令部長です。

 

話しは あちこち飛んでしまいますが 陸軍と海軍のトップ3の呼び方ですが

海軍は 海軍大臣 海軍軍令部部長 そして連合艦隊司令長官 です

 

陸軍の話は 又後ほどでと言う事で

今回は この3部門でトップだった 永野修身さんの話です。

 

 

彼は 9月6日の御前会議で

天皇陛下の質問にたいして

「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国」 と述べた事で有名ですね

この内容についても 後ほどと言う事で

 

彼の人物評価はいろいろあるようですが その永野修身について、、、

 

東京裁判において永野元帥はA級戦犯とされました。

その永野元帥は、開戦に反対でした。

ですから彼が東京裁判において

「自分は当初から反対だった」と証言すれば、

それは彼の裁判を、有利なものにする証言となったかもしれません。

けれど彼は裁判を通じて、

そうした「自らにとって有利になる弁明」を一切しませんでした。

そればかりか「真珠湾攻撃の責任の一切は自らにある」と明言しました。

戦死した山本長官らに真珠湾の責任を押しつけるような発言さえも一切しませんでした。

その姿に、米国海軍大将のジェームズ・リチャードソンも、

「マーシャル永野こそ真の武人である」と、惜しみない称賛を惜しみませんでした。

と言われています。

 

よく「軍人は戦争好き」などという人がいますが、

とんでもないことだと思います。

あたりまえのことですが、そのような好戦的な人物には、

たとえ軍人とはいえ、人は誰もついていきません。

なぜなら軍人は、

戦いが始まれば、真っ先に死ぬ可能性が高い人たちだからです。

その軍人たちには、妻もあれば子もいるのです。

そして目の前で部下や戦友に死なれた悲しみを生涯背負うのです。

諸外国のことは知りませんが、

日本では古来、武人や軍人ほど戦いの厳しさを知っています。

そして武士ほど、戦いの回避を願わない人はいなかったのです。

 

我が国の歴史の中で、昭和16年(1941年)にはじまる大東亜戦争は、

たいへん大きな重みを持った事件です。

その大東亜戦争がいよいよ開戦という方向に向かったとき、

終始一貫して戦争に反対したのが、当時海軍の軍令部長だった永野修身元帥です。

彼は太平洋まで出て米国と直接対決するという案に、

「あまりにも博打すぎる」と、猛反対をし続けています。

 

しかし 結果は 太平洋でほぼ全滅し そして 奪われた島から原爆を

搭載したB29が飛び立つことになってしまったのです

 

戦争反対だった彼が 何故 開戦への道を歩んだのか????

 

天皇陛下の質問に永野は、

戦わざれば亡国、戦うもまた亡国と 有名な言葉を残しています

 

この言葉の背景は???

 

等の話は

明日に続く、、、。

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