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社長&顧問ブログ

2025.8.15

戦局必ずしも好転せず

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは終戦に反対した一部軍部の反乱の話しでした。

 

今日は終戦記念の日です

 

終戦決定は 最後 内閣全員の署名を経て 天皇陛下の御名御璽を得て初めて

国の決定になります。

 

今日は最後の閣議において 陸軍と海軍が ある一言で対立した話に進みます、、、。

 

1945年8月14日、ポツダム宣言受諾に向けた最後の閣議が開かれ、

そこには陸軍と海軍の間で、終戦の詔勅文の一文をめぐる激しい対立がありました。

 

この日までに、

御前会議などを通じて大筋としての終戦方針はすでに決まっており、

あとは天皇の御名御璽をいただく正式な手続き、

つまり終戦の詔勅を確定する段階に入っていました。

 

日本は原爆投下とソ連参戦によって

これ以上の戦争継続が不可能であることを多くの指導者が認めていましたが、

それでも戦争の総括にあたる詔勅の文言は、

国の名誉や将兵の士気、そして歴史の評価を左右する極めて重大なものでした。

 

詔勅案の中には「戦勢日ニ非ニシテ」という一節がありました。

これは、今回の戦争は正義ではなかった、

誤りであったというニュアンスを含む表現です。

 

海軍や一部の政府関係者にとっては、

この文言こそが連合国に日本が降伏の意思を明確に示す証であり

戦後の国際関係において信頼を得るために必要不可欠なものでした。

 

しかし、陸軍大臣阿南惟幾にとっては、

到底受け入れられるものではありませんでした。

阿南は、あくまでこの戦争は国を守るためにやむを得ず行った聖戦であり、

その正義性を全面的に否定することは、戦没者を冒涜し、

これまで戦い抜いてきた将兵やその遺族の心を深く傷つける行為だと考えていました。

 

陸軍は、たとえ敗北を認めても

「この戦争は間違っていた」とは書きたくなかったのです。

 

阿南は「戦局必ずしも好転せずに」

という表現への変更を強く主張しました。

 

これは

「戦争が必ずしも有利に展開しなかったとしても」

という意味にとどまり、

戦争そのものの正義性は否定しない言い回しです。

この微妙な言葉の差が、

陸軍にとっては将兵の名誉を守る最後の砦だったのです。

 

閣議の場は異様な緊張感に包まれました。

 

海軍側は、原案のままを貫くべきだと強く反論しました。

もし文言を弱めれば、海外に対して

「日本は最後まで自らの過ちを認めなかった」という印象を与え、

和平交渉の信頼性を損ねる恐れがあるという立場でした。

 

陸軍と海軍、それぞれが背負うものは重く、

互いの主張は平行線をたどりました。

 

時刻は刻々と過ぎ、議論は堂々巡りになりつつありました。

このままでは閣議が決裂し、終戦詔書がまとまらず、

戦争終結が遅れる危険がありました。

 

阿南の心中には、複雑な思いが渦巻いていました。

戦況が絶望的であることは彼も十分に理解していましたし、

これ以上の戦闘継続が

国民に更なる惨禍をもたらすことも分かっていました。

 

しかし、

もし「戦勢日ニ非ニシテ」という文言を受け入れれば、

戦い抜いた将兵の努力や犠牲が

「無意味だった」とされる危険があります。

さらに、敗戦後の混乱期において、

軍人や遺族の心の支えが失われ、社会不安が拡大することを彼は恐れていました。

 

阿南は、戦争を終わらせるために自分が果たすべき役目と、

陸軍の誇りを守る責任の間で、ぎりぎりの綱渡りをしていたのです。

 

一方、海軍側も苦渋の中にありました。

すでに制海権も制空権も失い、本土防衛は不可能な状態で、

連合国側に対しては一刻も早く降伏の意思を示し、

無条件降伏の条件を少しでも有利に運ぶために、

日本が戦争を誤りと認める明確な表現を残すべきだと考えていました。

海軍首脳は、この表現を削ることは

国際社会に対するメッセージの弱体化を意味し、

将来の国益を損なうと懸念していたのです。

 

閣議室には、双方の主張が交錯し、重い沈黙が訪れる場面もありました。

 

全員が、この一文をどうするかで

日本の運命が左右されることを痛感していました。

 

議論が硬直し、進展が見られないまま時間が経過し、緊張は頂点に達しました。

このままでは再び御前会議に持ち込む事態も予想され、

その場合は終戦がさらに遅れる恐れがありました。

 

原爆投下やソ連侵攻で国土はこれ以上の被害に耐えられない状況にあり、

誰もが時間との戦いに直面していました。

ついに海軍側が譲歩の決断を下します。

戦争終結を優先し、これ以上の犠牲を避けるためには、

ここで陸軍大臣の意向を受け入れるしかないと判断したのです。

 

こうして詔勅の文言は

「戦局必ずしも好転せずに」と改められ、

ようやく全員一致で閣議がまとまりました。

 

その直後、詔勅案は天皇に上奏され、

昭和天皇は静かに御名御璽を与えられました。

こうして正式な終戦詔書が成立し、

翌日の玉音放送に向けた準備が進められることになったのです。

 

この時の阿南惟幾の胸中は、安堵と覚悟が入り混じったものでした。

彼は、自分の使命であった陸軍の名誉を守りつつも、

戦争を終結させる役目を果たしたという達成感を抱いたかもしれません。

 

しかし同時に、戦争を終わらせる責任を果たした以上、

自分の命でけじめをつける覚悟も固めていました。

 

そして8月15日未明、阿南は割腹自決によってその生涯を閉じます。

遺書には、部下や国民に向けての感謝と謝罪、

そして将来の日本への願いが込められていました。

 

詔勅の一文をめぐるこの攻防は、

単なる言葉の選択以上の意味を持っていました。

 

それは、戦争をどう位置づけるかという歴史観の衝突であり、

戦後の社会の精神的支柱をどう残すかという問題でもありました。

 

もし海軍側が譲らなければ、閣議は決裂し、戦争は数日間でも長引き、

更なる犠牲が出た可能性があります。

逆に、陸軍側が折れていれば、

戦没者の名誉や軍人社会の士気が崩れ、

戦後の治安維持に深刻な影響が出たかもしれません。

 

この出来事は、

終戦の裏にあった人間的葛藤と政治的駆け引き、

そして互いの信念をぶつけ合いながらも

最終的に一致点を見いだす政治判断の難しさを物語っています。

 

この中で浮かび上がるのは、敗戦という現実を前にしても、

なお守るべきものがあった人々の姿です。

 

終戦の詔勅に刻まれた一文には、

戦争の是非をめぐる深い思索と、未来への苦い願いが込められていたのです。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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