
EXECUTIVE BLOG
2025.5.13
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 新教皇がレオ14世を名乗る事になった話でした。
本日は 新教皇の最初のスピーチについての話に進みます、、、。
バチカン市国のシスティーナ礼拝堂でコンクラーベが行われ、新しい教皇が選ばれました。
今回選ばれた教皇はアメリカ合衆国出身であったため、
世界中の多くの人々がその最初のスピーチを英語で行うのではないか?
あるいは、バチカンでの公式行事ということでイタリア語で話すのではないか??
とも思われていたようです。
ところが実際には、新教皇はラテン語で挨拶を行いました。
それは深い歴史的意味と象徴を持っていたのです。
なぜ、新教皇はあえてラテン語を選んだのか????。
その理由を理解するには、カトリック教会とラテン語との関係、教皇という存在の位置づけ、そして教会の普遍性という理念を紐解く必要があるのです。
まず、ラテン語はカトリック教会にとって単なる古典語ではないとされています。
教会にとっては、ラテン語は「聖なる言語」であり、「教会の公用語」とされているのです。
現在のローマ・カトリック教会は、4世紀ごろから典礼や教義の表現においてラテン語を用いるようになり、それは20世紀の第二バチカン公会議まで基本的に維持されていたのです。現代ではミサなどが各国語で行われるようになっているのですが
それでもなお、教皇庁の公式文書は今もラテン語で書かれているのです。
例えば教皇の回勅や教義の宣言、新しい教皇の名前が載る「ハビェムス・パパム」の声明文もすべてラテン語なのです。
つまり、ラテン語は単なる伝統ではなく、教会が世界中に一つの姿として存在することを示す統一の象徴だと言えるのです。
また、教皇という存在は、ある特定の国や民族に属するのではなく、
全世界のカトリック信徒にとっての「霊的な父」ですね、、、。
たとえその人物がアメリカ出身であれ、ポーランド出身であれ、イタリア出身であれ、
教皇に選ばれた瞬間からその国籍的な背景は二の次となるのです。
教皇とは「普遍の教会の長」であり、地球上すべての信徒を代表する存在だと言う事になります。
したがって、特定の国の言葉で挨拶することは、
他の国の信徒に対して無言の疎外感を生む可能性があるのです。
それで、ラテン語という中立的で歴史的な言語を使うことで、
誰か一国を特別に扱うことなく、
全世界の信徒に向けた普遍的なメッセージを伝えることができると言う事になるのです。
さらに、ラテン語の使用はカトリック教会の伝統と連続性を示す手段でもあります。
教皇が代替わりしても、教会としての歴史と教義は脈々と受け継がれていきます。
その中で、ラテン語はまさに「継承の言語」として機能していると言うわけですね、、。
特に教皇就任の瞬間という厳粛な場において、
形式や儀式が重視される中、ラテン語の響きが持つ格式と荘厳さは場にふさわしいものであると言えるのでしょう。
言葉そのものが儀式を成立させる力を持っており、ラテン語による宣言は、
カトリック教会の2千年にわたる伝統を象徴的に示す行為と言う訳なのだと考えられます。
また、新教皇がラテン語で挨拶をした背景には、バチカンが持つ国際性も関係しています。バチカンは世界中から集まった枢機卿たちによって構成され、
国連と並んで多言語・多民族の組織ですね、、。
そのような中で一つの言語を共通言語として使用する必要があるのですが、
その役割を担ってきたのがラテン語だったと言う訳です。
中立で、かつどの国の言語にも偏らないラテン語は、バチカンの公的言語としてふさわしく、政治的な意味合いを含まないため、スピーチにおいても誤解を生みにくいのです。
それから、宗教的側面も見逃せません。
ラテン語は祈りや典礼の言語でもあり、
カトリック教徒にとっては耳に馴染んだ「神に語りかける言葉」であると考えられます。
新教皇がバルコニーに姿を現し、「祈ってください」と述べたとき、
それがラテン語で語られることで、信徒たちはそれを単なる挨拶ではなく、
神聖なメッセージとして受け取ることができたと言うわけです。
形式美や宗教的敬虔さを大切にする教会にとって、
ラテン語の使用はその精神を保つ重要な手段でもあると言えるのでしょう。
新教皇のスピーチがラテン語だったという事実は、表面的には珍しいように映りますが、
カトリック教会という組織の根幹に触れる深い意味を持つものだったです。
教会の歴史、普遍性、そして神聖さを象徴するその言語によって、
新たな教皇は自身の役割と使命を静かに、
しかし確かに世界に示したのだと思います。
とは言え当日は
バチカンには多くの信者が集まっていましたね、、、、
ここで 新たな疑問が湧いてくると思います、、、、、
それは??????
明日に続く、、、、。