EXECUTIVE BLOG
2021.2.16
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは
江戸時代の藤岡屋の商売的なことを そんな事も知らない私が
新入社員の時に同じような事を行っていて 営業に役立てていたと言う話でした。
いずれにしても情報が大切だという事と それを発信するだけでなく
如何に収集して分析して必要な人に届けるかが肝心であるのです。
江戸時代は マスメディアなどが存在してませんでしたので
瓦版が町民にとっての唯一の情報収集の存在でしたが
明治に入ると 新聞が世の中に出ることになるのです。
と書いている所で
そもそも瓦版の成り立ちを知らない方もいるのではと思ったのです。
最近の若い子たちは新聞は読まない人が多いと聞きますが
流石に新聞を見た事がないと言う人は居ないと思います。
しかし その新聞の前進が瓦版であることを知らないのでは?と
ふと思ったのです。
ここで 少し瓦版の説明をさせて頂きます。
今の時代だと コロナが流行ればテレビ新聞はコロナ一色ですし
五輪問題が起きればみなその話題に集中しますね
情報に敏感なのは なにも現代人だけでは無かったのです
江戸時代の人間も色々な事に興味を持っていたのです。
江戸時代においては今の新聞の号外のように道端で配られていました。
江戸のワイドショー的役割を果たしていたのがかわら版だったのですね。
浮世絵と同じように、文字や絵を彫った原板を紙に1枚1枚摺って作られた印刷物だったのです。
原板は粘土板に文字や絵を彫って印刷したとも言われますが、
木版摺りのほうが早くて安いため基本的には木版摺りであったとされています。
そうして一定数摺られたかわら版を売り歩くのは、
とんがり帽のような編笠を目深にかぶった「読売」と言われる人が配っていました。
その名の通り、道行く人々の興味を引くように
かわら版をちょっと節をつけたり面白おかしく読み上げながら売るのです。
大抵が2人組で、1人が読み上げ、もう1人がなんとなく周りを伺っています。
何故かと言いますと
かわら版の内容が幕府を揶揄するような内容だと捕まってしまうからで、
見つかりそうになったら捕まらないようにさっさと散ってゆくのです。
編み笠を深くかぶっているのも同じ理由で顔を知られないようにするためだったのですね、
かわら版の歴史は江戸時代の初めに遡ります。
現存する最古のかわら版、記念すべき第1号は、1615(慶長20/元和元)年発行の「大坂安部之合戦図」と言われています。
実はこれ、徳川が豊臣を滅ぼした大坂夏の陣の様子を伝えるかわら版なのです。
徳川幕府が勝利を収めた事を大々的に讃える内容でした。
今では歴史の教科書で重要事項として出て来ますが、当時は相当なビッグニュースだったのでしょう。
このかわら版はのちのかわら版と違って幕府か命じて作らせたものであり、
どちらも幕府側の圧勝を強調し、
徳川の世の到来を世に知らしめる役割を担ったと言われています。
これを知ると戦前の軍部の思いのまま情報を載せていた新聞を思い出しますね、
真実を伝えるニュースを伝える事が必要だという事で
二人の男が立ち上がるのです
それは
福沢諭吉と 福地桜痴 と言われる人です。
今でいうジャーナリストの走りですね
この二人は 何を発刊したのか??
それは
明日に続く、、。