EXECUTIVE BLOG
2022.2.22
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 明治5年に 太陰暦から太陽暦に変わった話から
その訳と それを 急いで推進した人物が
大隈重信だったと言う話でした。
今日は その大隈重信の右足の話に進まなければなりませんが
大隈重信と言えば 早稲田大学の創立者という事をご存知の方が
多いかと思います。
慶応義塾は 福沢諭吉だという事も知っている方も多いですね
しかし 例えば 地元福岡で 地元の大学生に 君の大学の創立者は誰か知ってますか?
と質問しても 殆どの学生が答えられれないのです。
折角入学した自分の大学の創立者くらいは知っていて欲しいなと思うのです。
私は 大学は慶応でしたが もちろん創立者が福沢諭吉である事は知っていました。
そして
この福沢諭吉が 当然初代 塾長なんだとばっかり思っていたのですが
初代塾長は 浜野さんと言う方で 福沢諭吉は創立者であって 塾長ではなかったと
いう事を知ったのは 卒業してかなり経ってからでした
OBとして恥ずかしい限りです。
で 話は 早稲田大学に戻りますが
早稲田の校歌は 特に有名ですね
出だしが 「都の西北、早稲田の杜に、、、、、」で 始まる校歌です
なんで 都の西北なんだろうと思っていたのですが 大隈重信が最初に 豊島郡早稲田村に専門学校を設立した場所が 皇居から見て 西北なんだそうです。
そしてこの校歌は
明治40年 の創立25周年の時に完成して、
日本の大学で一番初めに出来た校歌なのだそうです。
ちなみに慶応義塾大学の旧塾歌は、明治36年作られましたが、
早稲田大学校歌を聞いた後に作り変えられ、現在の塾歌は昭和16年のものだそうです。
明治・立教・法政の校歌も、全部早稲田大学校歌が出来たあとに作られたものですし
なんと東京大学には校歌は存在しないのですよ。
という事は
「都の西北」は、初の世界水準の校歌だといえますね。
ちなみに慶應義塾大学の塾歌は、
飲んだら歌わないという決まりがあるそで、
塾歌を歌うのは、早慶戦のときだけで
それで塾歌をまったく知らずに卒業する学生も多いのだそうです。
参考
そう言えば 私も 塾歌を歌ったのは 東京六大学に神宮球場で歌っただけで
後に 卒業生のOB会とかで 歌われるのは 「若き血」が殆どでした。
この塾歌 長いですし 高音が多いので歌い難いと思います。
早稲田大学の校歌は、
当時文学科講師であった日本近代劇の先駆者・島村抱月の
「学生の心を一つにするものが欲しい」
という思いによって発案されたそうです。
この案は、師の坪内逍遥に預けられ、
逍遥は6年間をかけてイートン校など海外の有名大学の校歌を集め研究したそうです。
最初は公募で効果を作ろうとしたそうですが なかなか良い案が出て来ませんでした。
そこで、坪内逍遥と島村抱月は、卒業生の相馬御風に作詞を依頼して
10日余の苦闘の末に、相馬御風は名作「都の西北」を書き上げました。
作曲したのは、当時講師であった東儀鉄笛氏だそうです。
参考
https://www.youtube.com/watch?v=Wx7OLhrJyCs
100年以上にわたって愛される都の西北は、大学講師の熱い想いから産まれた校歌だったのです。
という事で 大隈重信が設立した 早稲田大学の話に逸れてしまいましたが
とうの 大隈重信はどのような人で 彼の右足は今どこに?????
に
明日は
続く、、、。