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2025.6.17

明徳の和約

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 南北朝時代の話しでした、、。

今日は 将軍職の位を与えていたのは どちらの方なのか???

の話に進みます、、、。

 

南北朝時代は、1336年に後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に移り、

自らの正統性を主張して「南朝」を開いたことに始まりました。

 

一方、京都に残った足利尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、「北朝」を樹立しました。

 

この時、日本には二人の天皇が同時に存在するという未曽有の状況が生まれたのです。

征夷大将軍という役職は、

本来、朝廷の最高権威である天皇によって任命されるものですが、

南北に天皇が分裂した以上、どちらがその権限を有していたのかという問題が生じました。

 

結論から言うと、

足利将軍家が朝廷から征夷大将軍の称号を受けていたのは「北朝」からです。

 

つまり、足利尊氏をはじめとする歴代の将軍は、

北朝の天皇から正式に将軍職に任命されていたのです。

 

その理由は、足利政権が京都に本拠を置き、実質的な軍事力と政治支配権を握っていたからに他なりません。

幕府は武士政権であり、力こそが支配の根拠であった時代において、

軍事的に優位に立つ尊氏らが主導する北朝が、形式的にも官位授与の権限を掌握していたのです。

 

また、京都という都の地理的・政治的中心に位置することで、

諸国の有力武士たちも北朝を「公的な天皇」と認めやすく、

結果として幕府も北朝から征夷大将軍に任命される体制を固めていきました。

 

対して南朝は、後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇、長慶天皇などが

吉野や賀名生など山深い地に拠点を移しながら政権の正当性を主張し続けました。

 

南朝は「天皇親政」と「建武の中興」を理想とし、

あくまでも自らが本来の天皇であるという立場を崩しませんでした。

 

つまり、南朝からすれば、北朝の天皇は「偽朝」であり、

当然その「偽朝」が任命する征夷大将軍などは、正統の将軍ではないという立場でした。

 

ゆえに南朝は、幕府を認めず、また幕府に与する武士たちを討伐の対象とみなし、

しばしば南朝側でも「征夷大将軍」または「大将軍」を独自に任命する動きがありました。

 

たとえば、楠木正行や宗良親王などは、南朝側の軍事指導者として

「征西将軍」や「中務卿」といった称号を授けられ、幕府軍と戦い続けました。

 

しかしながら、南朝の軍事力は限定的であり、広範な支配力を持つには至りませんでした。

 

そのため、多くの地方豪族や国人たちは、

現実的には幕府政権と北朝の天皇を受け入れざるを得なかったのです。

 

こうして形式上は北朝が正統な天皇であるかのように見えましたが、

南朝の理念と血統こそが本当の「正統」であるという考えも根強く残り続け、

江戸時代には南朝を正統とする儒学者や尊皇思想家たちが現れ、

やがて幕末の倒幕思想にも繋がっていきます。

 

さらに、明治維新後の明治政府は、1871年に公式に「南朝正統」を宣言し、

それまで北朝が伝えてきた天皇の系譜を「偽系」とし、南朝を天皇家の正統として位置付けました。

 

これによって、歴代将軍が北朝から任命されていたという歴史的事実と、

南朝こそが正統という理念との間に深い矛盾が生まれることになります。

 

つまり、南北朝時代においては、実際の権力を持つ幕府が北朝から将軍の称号を得ており、南朝は理念と血統によって対抗していたのです。

 

南朝は自らの朝廷を「本朝」とし、北朝を「偽朝」と見なしていた一方、

北朝と幕府は南朝を「反乱勢力」と見なし、討伐対象として戦いました。

 

南朝はたびたび降伏勧告を拒否し、

最後の後亀山天皇が明徳の和約により北朝の後小松天皇に譲位するまで、

約60年にわたって対立は続きました。

 

征夷大将軍という称号をめぐるこの分裂は、単なる軍事指揮権の問題だけでなく、

天皇の正統性、政治的権威、

そして日本国家の根本に関わる象徴的な意味を持っていたのです。

 

では 南北朝以後 ずっと北朝だったのが

なぜ明治政府は南朝を正当とみなしたのか???????

 

 

の話しは

明日へ続く、、、、、。

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