EXECUTIVE BLOG
2022.2.20
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 番町小学校の話から その番町、江戸時代は旗本や大名が住んでいた町
で 今では そのお屋敷跡にイギリス大使館があり
大使館と言えば 色々な外交特権があると言う話でした。
話は 又少し戻して
番町小学校が明治5年に出来た事を思い出したのですが
この明治5年という年は 日本では ある意味歴史の転換点ではなかったのかと思います。
その中でも一番重要だったのが 今までの制度を変えて行くには 教育をしっかりしなければならないと考え この年に学制が出来たのだと思います。
それまで 江戸には 町人は居ますが 制度が変わってしまう事に戸惑った人が
他に多く居たのではと思います。
それが 旗本であり御家人だったのでしょう。
今まで 徳川家に命をかけていた人々が 急に 天皇の名のもとに統治されることを
どう思ったのでしょうか??
幕末の戊辰戦争では 天皇側 すなわち官軍から賊軍呼ばわりされて 最後は函館まで
追い詰められて行ったのですから、、。
ここで言う所の 旗本と御家人は 徳川家直属の家来だという事を知っている人は多いかと思いますが この二つの違いを御存じない方も居るかと思います。
それまで 徳川家による統治が300年近くもあったのが
あっと言う間に 新体制が出来あがって行くわけですから なかなか馴染めなかったと
思います。
この明治五年におきた主な出来事として
先ず日本最初の鉄道が仮開業(品川−横浜間)されました。
始めて蒸気機関車を見た人々はどんな感じがしたのでしょうか??
そして 学制が発布され 次々に学校が出来て行くのです。
今まで 寺子屋でしか学べなかったのですが 一般人も学校に行ける事を
どう思ったのでしょうか?? それまで多分字が読めない人も多くいたと
思うのですが この事で文化も一段と発展して行けるのだと思います。
又この年に 富国強兵策の一環として 富岡の製糸工場が出来るのです
今まで の手縫いから 機械による生産で時代が変わったと感じだして行ったのでは
と思います。
又 この年まで 沖縄は琉球王国でしたが 県の前身の琉球藩として
日本に組み込まれて行くことになるのです。
そして 一番人々が驚き困惑したのは 暦がいきなり変わった事では
ないでしょうか?
明治5年の年末の12月2日 に
日本では太陽暦が採用されました。
改暦の詔書が出されたのは、明治5年の11月9日で、
翌月の12月3日が、明治6年の1月1日となったのです。
つまり、急に1か月も早くお正月を迎えることとなったので、
政府にも庶民にも大変な混乱があったようですが、
いったいなぜそのように急な変更が行われてしまったのでしょうか???????
西欧の文化に追いつくと言うのが一番の名目だったのでしょうが
しかし 急いだのにはほかに訳があったのです、、
その仕掛け人が 早稲田大学創立者の大隈重信だったと言われていますね
では
何故 急いで 暦を変える必要があったのか?????
えっ
そんな理由で????????
と思うような内容です、、、、、
その
内容とは?????????
それは
明日に続く、、、、、、。