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2025.3.8
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
二・二六事件(1936年)は、日本の歴史において特筆すべき軍事クーデターの一つでした。
陸軍の青年将校たちは「昭和維新」を掲げ、政府要人を襲撃・殺害し、一時的に東京を占拠したのです。
この事件に対し、昭和天皇は断固とした態度を取り、青年将校たちを「逆賊」と認定し、徹底的な制圧を命じました。
本日は この時の昭和天皇のご心中の話しに進みます、、、。
当時の青年将校たちは、農村の疲弊や財閥の横暴に対する強い憤りを抱え、
「天皇親政」や「国家改造」を理想としていました。
彼らの信念の根底には「天皇の御心に適う政治を実現する」という強い思いがあり、
決して反天皇的な動機ではなかったのです。
しかし、
昭和天皇はこの動きを「暴挙」と捉えたのです。
彼らが「天皇のため」と主張しながらも、合法的な政府を転覆し、
軍隊を勝手に動かしたことは、決して許されるものではありませんでした。
天皇は、
「朕は軍を私するものを最も憎む」と述べ、
軍を独断で動かすことを強く否定したのです。
この姿勢は、天皇が立憲君主としての立場を重んじ、
法と秩序のもとに統治を行おうとする姿勢を示したものでした。
青年将校たちは皇居への進軍を試みなかったため、彼らの標的は天皇そのものではなく、
政府の政策に対する強い反発であったことは明白でした。
しかし、昭和天皇にとって「軍紀の乱れ」は許し難く、
自らの意志で政府を転覆しようとする動きは、
国家の安定に対する重大な脅威と見なしたのです。
事件発生の翌日、天皇は杉山元侍従武官長らと協議し、
「なぜ直ちに討伐しないのか」と激怒しました。
さらに、「自分が近衛師団を率いて自ら鎮圧する」とまで発言したと伝えられています。
天皇自らが軍を率いるというのは極めて異例であり、
それほどまでに強い決意を持っていたことがうかがえます。
最終的に、昭和天皇は青年将校たちを「逆賊」と断じ、鎮圧を命じたのです。
その結果、反乱軍は3日間の占拠の後に降伏し、多くの将校が処刑されることとなりました。
事件後、昭和天皇は青年将校たちに対し厳格な処分を下しましたが、
その心中には複雑な感情があったと考えられます。
彼らは決して私利私欲のために動いたわけではなく、
「天皇のため」と信じて行動していました。
しかし、その行動は結果的に国家の安定を脅かすものであり、
天皇の立場としては決して容認できるものではなかったのです。
一方で、昭和天皇は事件後の軍の粛清には慎重でした。青年将校を過激に処分すれば、
陸軍全体の反発を招く可能性がありました。
そのため、事件後は軍部のバランスを考慮しながら政治運営を行い、軍部の台頭を抑えつつ、日中戦争へと向かう不安定な時期を迎えることとなります。
昭和天皇は二・二六事件において、法と秩序を守ることを最優先し、
いかなる軍部の暴走も許さない姿勢を示しました。
これは、天皇自らが政治に関与しないという「立憲君主制」の原則を貫き、
軍による独裁政治を防ぐ重要な決断だったと言えると思います。
しかし、天皇の心中には
「なぜ彼らがこのような行動に走ったのか」という無念さや悲哀もあったのではないでしょうか。
国を想い、改革を志した若き将校たちの命が散ったことに対し、
天皇陛下は痛みを感じながらも、国家の安定のために厳格な判断を下さねばならなかったのです。
結果として、この事件は日本の政治と軍の関係に大きな影響を与え、
その後の日本の戦争への道筋にも影響を及ぼしました。
昭和天皇の決断は、当時の国家運営の観点から見ても、
日本の歴史において極めて重要な局面であったことは間違いありません。
この事件後 青年将校たちに待ち受けたものとは???
は
明日に続く、、、。