
EXECUTIVE BLOG
2026.4.4
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは
エイプリルフールに関する話でした。
今日は また 話が戻りまして
桜と言えば 特攻隊を連想してしまいますが、
最初の特攻隊と言われる 関大尉の話に進みます、、。
神風特攻隊の最初に出撃したのは本当に関大尉なのか?
多くの人が「神風特攻隊の最初は誰か」と聞かれたとき、
関行男大尉の名前を思い浮かべるのではないでしょうか。
結論から申しますと、
一般に「神風特別攻撃隊の最初の出撃」とされているのは、
関行男大尉が率いた敷島隊です。
時期は昭和十九年、すなわち一九四四年十月二十五日で、場所はフィリピン方面でした。
この日に出撃した敷島隊は、
後に神風特別攻撃隊の第一陣として広く記憶されることになります。
ですから、「最初に出撃したのは関大尉ですか」と聞かれれば、
通常の歴史理解としては
「はい、神風特別攻撃隊の最初の出撃として知られるのは関行男大尉率いる敷島隊です」
と答えて差し支えないと思います。
ただし、この話はここで終わりではありません。
なぜなら「最初」という言葉が、実はとてもややこしいからです。
たとえば「神風特別攻撃隊として正式に編成された最初」という意味なら、
関大尉の敷島隊でよいのですが、
「敵艦への体当たり攻撃を最初にやったのは誰か」とか、
「特攻という発想そのものはどこから始まったのか」と問いを広げると、
話は少し違ってきます。
実際、太平洋戦争のかなり早い段階から、
決死的な特殊攻撃や体当たりに近い行動は存在していました。
海軍の特殊潜航艇による真珠湾攻撃なども、
広い意味では「特別攻撃」の系譜の中で語られることがあります。
ですから、
関大尉が日本軍における決死攻撃の絶対的な最初であった、とまでは言えません。
しかし、
それでも関大尉が特別な位置を占めるのは、
ここで初めて「神風特別攻撃隊」という名称が歴史の表舞台に大きく現れ、
その後の日本人の記憶の中で一つの象徴として定着したからです。
しかもこの出撃は、単なる作戦の一つではなく、
戦況が大きく傾いた中で日本海軍が事実上、通常の戦い方だけでは勝てないと判断し、
搭乗員も機体も失うことを前提とした攻撃を
本格的に制度化していく転換点になりました。
その意味で、関行男大尉は「最初の象徴」になったのです。
ここで気をつけたいのは、
後の時代になると、関大尉の存在が非常に象徴化され、
ある種の伝説のように語られるようになったことです。
たとえば
「関大尉がセント・ローに突入して撃沈した」といった説明は広く知られていますが、
実際にはどの機がどの艦に突入したのかについては議論もあり、
関大尉機が直接セント・ローに命中したのかどうかには異説があります。
けれども重要なのは、細部の機番の特定よりも、
敷島隊そのものが最初の神風特別攻撃隊として受け止められた事実です。
人は歴史を覚えるとき、すべてを細かく覚えるのではなく、
一つの象徴に集約して覚えます。
その意味で、
関行男大尉は神風特攻の出発点を体現する人物になったのです。
では、なぜそこまで関大尉が語り継がれるのか。
それは、彼がただ最初だったからだけではありません。
最初であることに加え、彼が率いた隊の名が「敷島隊」であり、
その後に続く「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と合わせて、
本居宣長の和歌に由来する強い象徴性を持っていたからです。
つまり、
この最初の特攻隊は、単なる軍事行動としてだけではなく、
最初から言葉と象徴によって意味づけられていたのです。
ここに、
後の日本人が関大尉を一人の軍人以上の存在として記憶してきた理由があります。
ですから、質問に簡潔に答えるなら、
神風特別攻撃隊の最初の出撃で知られるのは関行男大尉です。
しかし、その答えの背後には、
「何をもって最初とするのか」という問題と、
戦争末期の日本がその最初の出撃にどのような象徴を与えたのかという、
もっと大きな歴史の問題が横たわっているのです。