
EXECUTIVE BLOG
2025.8.14
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは ポツダム宣言を受諾するかどうかの日本政府の話しでした。
今日はその話しの続きです、、、。
1945年8月9日、その日は日本の運命を決定づける重い一日となりました。
午前11時2分、長崎の上空にアメリカ軍のB29爆撃機が到達し、
広島に続く二発目の原子爆弾が投下されました。
炸裂の瞬間、強烈な閃光が視界を白く塗りつぶし、
続く爆風と熱線が街を一瞬で焼き尽くしました。
数千度にも達する高温があらゆるものを溶かし、
人々は影を地面に焼き付けられたまま命を奪われました。
爆心地から離れていた者も重度の火傷や放射線障害に苦しみ、
叫び声やうめき声が崩れた瓦礫の中に響き渡りました。
この恐るべき破壊は、広島型とは異なるプルトニウム型原爆によるもので、
爆発規模や放射線被害は広島を上回るものでした。
そしてこの惨状とほぼ同じ時刻、東京の政府中枢にもう一つの衝撃的な報告が届きます。
それは、仲介役として最後の望みをかけていたソ連が、
日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したという知らせでした。
数十万の兵力と大量の戦車部隊、航空機を伴ったソ連軍は国境を越え
満州各地の関東軍守備隊に猛攻を仕掛けました。
日本政府はかねてより
ソ連を通じてアメリカやイギリスとの講和の糸口を探ろうとしており、
外務省はそのための打診を水面下で続けていました。
それが一夜にして敵に回ったのです。
東北方面から新たな脅威が迫るという現実は、国土防衛計画そのものを揺るがしました。
この二つの衝撃的な出来事は、日本の指導部を一気に窮地へと追い込みました。
同日の午後から深夜にかけて、御前における最高戦争指導会議が開かれました。
会場は宮中の一室、重厚な扉の奥に設えられた畳敷きの広間でした。
低い卓を囲むように椅子が並べられ、中央に天皇の座が置かれています。
窓は厚い障子で閉ざされ、外の夏の強い日差しも蝉の声も届かず、
室内には扇風機の微かな音と、汗を拭う衣擦れの音だけが響いていました。
出席者は鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、
そして参謀総長や軍令部総長ら、国の命運を握る最高幹部たちです。
全員が深刻な表情を浮かべ、
紙に視線を落としたまま沈黙する時間が続きました。
海軍や外務省の多くは、二発目の原爆とソ連参戦という現実を前に、
継戦は不可能との認識を持っていました。
米内海相は海軍の戦力がすでに壊滅的であり、南方からの補給路も絶たれ、
艦艇や航空機の稼働数も限界であると説明しました。
外務大臣の東郷は、ソ連が参戦した以上、
和平交渉の道は完全に閉ざされたと冷静に述べ、
これ以上の戦争は無益であり国民を破滅に導くだけだと訴えました。
一方、陸軍は依然として本土決戦に望みを託そうとしていました。
阿南陸相は、確かに戦況は極めて厳しいが、
国体護持の保証が得られないまま降伏することは、
祖国の名誉と独立を失うことにつながると主張しました
陸軍内部には、アメリカ軍の本土上陸を迎え撃ち、ある程度の損害を与えることで、
より有利な講和条件を引き出すべきだという声が根強くありました。
しかし実情として、本土決戦の準備は十分ではなく、
食料や弾薬の不足は深刻で、
国民動員令で招集された兵士たちは訓練も不十分なまま
竹槍で戦うしかない状況でした。
それでも面子と責任、そして敗戦の汚名を恐れる心理が
陸軍幹部たちを徹底抗戦へと向かわせていました。
議論は何時間経っても平行線のまま進み、
誰もが敗戦は避けられないと理解していながら、
その言葉を自分の口から出すことをためらっていました。
もし自分が降伏を口にすれば、その名は後世に敗戦の責任者として刻まれ、
非難の対象になるかもしれない。
その恐れが全員を沈黙させ、重苦しい空気が室内に凝り固まっていきました。
この膠着状態を打破したのが鈴木貫太郎首相でした。
鈴木は会議の成り行きを見極め、
これ以上の議論では結論は出ないと判断します。
そして異例の一手を打ちました。
それは御前会議の場で、直接天皇に意見を求めるというものでした。
御前会議は本来、決定事項を天皇に奏上し、承認をいただく場であり、
天皇が判断を下す場ではありません。
ましてや戦争終結の是非という国の命運を委ねることは前例がありませんでした。
鈴木首相は形式的には「聖断を仰ぐ」という形をとりましたが、
その本意は「天皇の口を借りて降伏を決定する」ことにありました。
全員が敗戦は避けられないと知りながら口にできない状況を見抜き、
天皇の権威を利用して結論を導き出す、
老練で計算された政治的判断でした。
沈黙の中、天皇は静かに口を開かれました。
お言葉は簡潔で明確でした。
これ以上国民を苦しめてはならない、戦争を終わらせるべきであると。
ポツダム宣言受諾の意向をはっきりと述べられたのです。
その声は決して大きくはありませんでしたが、
会議室全体を包み込む重みがありました。
天皇は命乞いをしたのではなく、
国民を第一に思う慈愛の心から、平和を選ばれたのです。
この瞬間、阿南陸相も天皇の意向を受け入れ、
国体護持が保証されるのであれば受諾に同意すると表明しました。
こうして長時間にわたった膠着は終わり、会議は終戦への舵を切りました。
この歴史的瞬間は、原爆とソ連参戦が会議の空気を決定的に変え、
鈴木首相が天皇の権威を借りて降伏を実現させた出来事として理解できます。
しかしその裏には、
敗戦という重い言葉をあえて天皇に発させることで、
誰もが避けたがった責任を肩代わりさせるという
現実的な計算がありました。
そしてその中心には、国民の命を守るため、
立場や感情を超えて戦争を終わらせるという
天皇の強い覚悟とやさしさがありました。
この決断があったからこそ、
日本はこれ以上の焦土化を免れ、
やがて復興への道を歩み出すことができたのです。
昭和天皇はあの日、
誰よりも平和を望んでいた人物であることを、
その行動によって示されたのだと思います。