
EXECUTIVE BLOG
2025.8.29
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは
天皇陛下とマッカーサーの会見の話しでした。
今日は 側近の木戸日記から見た その時の模様についてに進みます、、。
敗戦直後、日本政府が最も恐れていたのは天皇の戦争責任と天皇制の存続でした。
もし昭和天皇が戦犯として訴追され退位することになれば、
日本社会は統治の柱を失い混乱は避けられないと考えられていました。
昭和天皇自身もそのことを理解しており、
自らの責任を明らかにし国民の犠牲を減らすためならば、
身を差し出す覚悟を抱いていたと伝えられます。
その中で側近の木戸幸一は、
日記に「共産主義勢力の伸張、これ最も懸念すべきものなり」と書き残しました。
彼はもし天皇が退位させられ国体が崩壊すれば、国民は行き場を失い、
混乱の中で共産化の流れに飲み込まれると真剣に憂えていたのです。
実際に敗戦直後の社会では、ソ連の対日参戦や中国共産党の動向もあり、
共産主義が勢いを増していました。
木戸は
「天皇を守ることは単に日本の伝統を守るということにとどまらず、
日本を共産化の脅威から防ぐ防波堤になる」
と考えていました。
そのため天皇とマッカーサーの会見は、
単なる儀礼ではなく
「国体護持」と「共産化阻止」をかけた決定的な場と位置づけられていたのです。
一方、マッカーサーも同じように現実的な懸念を抱いていました。
彼は当初、天皇を軍国主義の象徴と見ていましたが、
同時に「天皇をどう扱うか」が
占領政策の成否を決めると理解していました。
マッカーサーの頭の中には、
もし天皇を排除すれば日本は政治的空白に陥り、
共産勢力が力を増すだろうという冷静な計算がありました。
彼はのちの回顧録『リメンブランス』でこう記しています。
「私は天皇と会ってみなければならなかった。日本を安定させるために、
天皇の人となりを自ら見極めねばならなかった」と。
アメリカ国内や連合国では天皇訴追を求める声が強かったのですが、
マッカーサーは現実主義者として天皇を利用する方が占領政策に有利だと考えたのです。
1945年9月27日、会見は三十分ほど行われました。
昭和天皇は冒頭から
「私は国民をして戦争に導き、遂に敗北せしめた責任を一身に負っております。
私の身はいかようにも処置していただきたい。
その代わり日本国民が困窮することのないようお願い申し上げます」
と述べられました。
これは自己弁護を一切せず、国民救済を第一に願う言葉でした。
木戸の日記には
「陛下は御自ら国民の安寧を祈られ、自己の安危には一言も及ばれず」
と書き残されており、まさにその通りの姿でした。
国民を救うために首を差し出すという覚悟は、
敗戦指導者の中で稀有なものでした。
マッカーサーはその言葉に強烈な衝撃を受けました。
回顧録には
「私は深く心を打たれた。これは真の紳士であり、勇気ある人物であった。
あの時ほど、ある人間を深く尊敬したことはない」
と記されています。
彼はそれまで天皇を「不安要素」と考えていましたが、
この会見でその認識を一変させました。
彼にとって昭和天皇はもはや軍国主義の象徴ではなく、
日本統治に欠かせない精神的支柱となったのです。
木戸は日記に
「マ元帥は陛下のお心を十分に理解せられたるものと信ず」と記し、
安堵の思いを吐露しました。
その後公開された有名な写真、
ラフな軍服姿のマッカーサーと正装の天皇が並んで立つ姿は、
国民に大きな衝撃を与えました。
朝日新聞や毎日新聞がこれを一面に掲げ、
敗戦に打ちひしがれていた人々は
「天皇は守られた」と安心しました。
木戸は
「陛下とマ元帥並立の写真、殊の外大なる影響を国民に与ふるものならん」
と予見していましたが、その通りになったのです。
アメリカ国内でもこの会見は報じられ、
当初の「天皇訴追論」は次第に後退しました。
天皇が自己保身ではなく国民救済を訴えた事実は
「独裁者ではなく国家の象徴として利用できる存在」という印象を与え、
マッカーサーの判断は現実的かつ賢明なものとして評価されました。
こうして天皇とマッカーサーの会見は、戦後日本の方向を決定づけました。
木戸幸一の日記が示すように、
日本側は「国体護持」と「共産化阻止」を強く意識して準備し、
昭和天皇は国民救済を第一に掲げて会談に臨みました。
そしてマッカーサーの回顧録が示すように、
彼自身も会見によって天皇を守る決意を固め、
以後は象徴天皇制を維持する政策に転じました。
もしこの会見がなければ、あるいは天皇が自己保身を語っていたなら、
歴史は全く違った方向に進んでいたかもしれません。
敗戦直後のわずか三十分の会談は、国体の存続と共産化の阻止、
そして日本の戦後民主主義の基盤を築く出発点となったのです。