EXECUTIVE BLOG

社長&顧問ブログ

2024.6.3

本能寺にて

 

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 日本に最初に来たと言われている黒人 弥助の話でした。

 

彼は探検家とかではなく 日本に布教にくる宣教師の奴隷として 日本にやってきました。

 

日本人は どこも植民地にした事もなく 日本は世界の中でもまれな 植民化されてない国です。

 

日本人の発想の中に 他国に侵略してそこの国の人を 奴隷として扱うと言う事は

無いのではと思います。

 

一時期アジアの一部の国の人を 強制労働として扱った事があった歴史があるようですが

 

西欧の奴隷制度と同じに考えてはならないと思います

 

後日 詳細は書きますが

アメリカにおいて一時期奴隷が居た時 その奴隷が 病気になっても 病院には連れていかず 動物病院に連れていっていたと言われています

 

そんな 馬鹿なと 今だと思いますが 当時のアメリカでは 奴隷は人間ではなく家畜として扱っていたからなのです。

 

又 ある動物園では 黒人を檻の中に入れて 見世物のにしていたというのですから

驚きです。

 

昨日日本に連れて来られた 南蛮人の奴隷であった黒人は

日本で 織田信長の目に留まりました。

 

織田信長が 南蛮人と同じ発想であれば 黒人を奴隷として扱ったと思いますが

 

信長は 弥助を武士として取り扱ったのです。

 

当時は サムライと言えば 権威のある者です。

 

雑用係のような奴隷としてではなく 武士として取り立てた信長は素晴らしいと思います。

 

この時の弥助は 南蛮人の扱いと 全く違うように扱ってくれる 信長の事を

尊敬したのではと思います。

 

信長は 色々な面で奇異に見られがちですが この様な一面もある事から

彼もまた 常識に囚われない人物だったのではと思います。

 

士分に取り立てられた この弥助の誕生日や出生地については記録が残っていないそうです。

最近の多くの歴史家がモザンビーク出身ではないかとみているが、エチオピアやナイジェリアから来たという説もあるそうです。

 

信長の家臣だった明智光秀が謀反を起こした1582年の本能寺の変では、

弥助は信長と共にこの寺に宿泊していたとされ、ご承知の通り

信長はここで切腹していますね。

 

この時信長は弥助に介錯を頼み、自分の首を刀と共に息子に送り届けるよう頼んだと言われています。

 

これは絶大な信頼の証ですね、、、、。

 

信長の死後間もなく、弥助は追放され、

京都にいたイエズス会のもとへ戻った可能性もあると言われていますが

 

戻された弥助は元の奴隷の扱いを受けてしまうわけですから

信長の死をどのように感じていたのでしょうか?????

 

この弥助のあと 同じように活躍した黒人は居たのか????

 

の話は

 

明日へ続く、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

次の記事へ
前の記事へ