EXECUTIVE BLOG
2022.2.26
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
大隈重信の銅像の話から
銅像と言えば 大阪証券取引所前にある 五代友厚の話でした。
そこで 今日は 銅像繋がりで
札幌市役所にある 銅像の話になります。
ここに置かれているのは 島義勇と言う人の銅像なのです。
この方 北海道の方かと言うと そうではなく
なんと 大隈重信と同じ 佐賀の人なんですよ。
同じ 佐賀とは言え 大隈重信より 16歳年上ですが、、、。
とは言え佐賀の人間が何故 北海道に? しかも その銅像が何故市役所にあるのか?
と不思議に思うのですが
これには 深い訳があるのです。
北海道は 言わずと知れた未開の地でしたね
島義勇は家督を継いでから諸国を旅して勉強することになるのですが
1856年には、藩主・直正の命で蝦夷地・樺太の調査を行う事になったのです。
確かこの時 34歳くらいの時のはずです。
まだ江戸時代です。
その後、1867年に行われる戊辰戦争で、陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となり、
戦争中は新政府の東北地方征討に尽力しました。
そして 明治維新が起こり
1869年に蝦夷地が北海道と改称されて、藩主・直正が蝦夷開拓督務になります。
直正から信頼されていたうえに、過去に蝦夷地を調査した経験から、
島義勇は蝦夷開拓御用掛に任命されたのでした。
この時、新政府はロシアの南下政策に危機感を感じていたのです。
実際にロシアの戦艦が岸に上陸して、無法な行動を行っていたからです。
後に日露戦争がおきますが
ロシアと言う国は 港を求めて南下政策をとり 国土拡大構想を持っていたのです。
先日からのウクライナ侵攻も同じ考えが流れているのでしょう。
こういう危機感を感じていた新政府は北海道を開発することが、
最優先事項であると結論付けたのです。
万が一にも 北海道をロシアが実効支配していたら きっと ここはロシア領土だと
難癖付けたに違いありません。
そこで政府は北海道開拓の責任者に、経験溢れる島義勇を任命したのでした。
早速、島義勇は原生林を切り開いて、札幌に官舎や倉庫を建築します。
引き続き、銭湯や旅館、飲食店、商店なども設立しました。
島義勇は、平安京にならった碁盤の目に整理された街並みを提案して
現在の北海道庁がある南側は官庁街に、
現在のすすきのがある北側は住宅地にするという構想も打ち出したのです。
彼は
「五州第一の都(世界一の都市)にする」
という目標を掲げ、開拓者として挑戦したのですね。
しかし、札幌の開拓は難航しました。
入植直後から飢饉の対応を迫られ、
さらに厳しい寒さと降り積もる雪に事業にも莫大な予算と労力を要してしまい、
一年分の予算が80日もしないうちに底をついてしまいました。
島義勇は、上司である開拓使長官・東久世通禧に増額を訴えましたが、
予算超過の責任を指摘され解任されてしまうのです。
が
その後、札幌の地を踏んだ東久世が想像以上の開拓事業に感嘆し、
そのまま計画を引き継いぎいたのでした。
このように 命がけで 都市づくりをした島を称えて
札幌市役所に 銅像が建っているのです。
しかし
しかし、この北海道では英雄となった島義勇は
地元・佐賀では評価されていないのです。
そして
彼のその後の運命は???????
それは
明日に続く、、、、。