
EXECUTIVE BLOG
2025.11.19
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 全共闘の話しでした。
今日は その全共闘のきっかけとなった 東大医局問題についてに進みます、、。
東大医学部処分問題とは、
一九六八年に起きた東大紛争を決定的に激化させ、
全共闘誕生のきっかけとなった重大事件であり、
当時の日本社会に大きな衝撃を与えた出来事です。
この問題の本質は、
東大医学部の内部に存在していた教授と医局の閉鎖的で腐敗した構造に
学生たちが異議を唱えたところ、
大学側が学生を重く処分し、その不当な処分が火に油を注ぐ形で学生の怒りを激しくし、
大学全体を巻き込む大紛争へと発展した点にあります。
当時の東大医学部には、教授選びが派閥の力関係で決まることや、
教授が医局人事を完全に支配し若い医師の将来を左右すること、
さらに研究費や人事の流れが極めて不透明であることなど、
学生から見れば封建的で閉鎖的な体質が強く残っていました。
医師を志す学生にとって医局は絶対的な権力をもち、
どの病院に行くか、どの専門に進むか、
将来どこで働けるかといった人生の根幹が医局の意向で決まるため、
逆らうことのできない重い圧力を感じていたのです。
そこに追い打ちをかけたのが、有名教授に関する医療ミス隠ぺいの疑いであり、
さらに大学病院で働く研修医たちが過酷な労働に追われ、心身をすり減らし、
ついには殉職といわれる死亡事件まで起きたという現実でした。
こうした事態に学生たちは強い疑問を抱き、
教授会に対して医局制度の問題点を明らかにすることや、
教授自身の責任追及を求める要求書を提出しました。
しかし大学側は学生の訴えを真剣に受け止めず、
逆に抗議行動を行った学生たちに無期停学や停学、
試験受験停止といった重い処分を下し、
学生たちは自分たちの正当な問題提起が握りつぶされたばかりか、
問題の根本にある教授側の責任はまったく問われず、
弱い立場の学生だけが罰せられていると強い不信感を抱きました。
この一連の処分こそが、一般に「医学部処分問題」と呼ばれるものです。
医学部の学生たちは、当初は個別の処分撤回を求めて行動していましたが、
理不尽な処分と大学側の不誠実な対応を目の当たりにするうちに、
問題はもっと深いところにあると気づき始めました。
それは大学という制度そのものの在り方への疑問であり、
教授と学生の上下関係、学問の権威性、大学の閉鎖性など、
戦後の社会に残るあらゆる構造的矛盾を問い直す運動へと急速に変化していったのです。
医学部で起きた怒りは他学部にも広がり、次第に学部を超えて学生同士が連帯し、
ついに全学的な組織である「東大全共闘」が誕生することになりました。
最初は医局制度や研修医制度の改善を求めていたはずの運動は、
次第に大学そのものを問い直し、
学問とは何か、権威とは何か、人間の自由とは何かといった哲学的な領域にまで広がり、
学生自身が既存の価値観を壊して新しい自分に生まれ変わろうとする
「自己否定」や「自己解体」という独特の思想へ発展し、
最終的には安田講堂事件へとつながる巨大紛争に発展しました。
医学部処分問題は、単なる学生と大学の衝突ではなく、
日本の大学が抱える構造的矛盾そのものを象徴しており、
医局制度の封建性、教授会の権威主義、大学の閉鎖性、
そして戦後民主主義の矛盾がすべて凝縮された事件であり、
学生たちは大学の民主化を掲げながらも、
自らの内面に潜む権威への従属心理をも自覚し、
それを壊そうとする激しい精神運動へと向かっていきました。
この激しい動きが三島由紀夫の目にどう映ったかといえば、
まさに戦後日本の精神的腐敗の象徴と重なり、
学生たちの激情の奥に言葉と行動を一致させようとする焦りや、
生の実感を求める強い渇望を見ていたといわれています。
医学部処分問題は単なる学内事件ではなく、
日本社会全体への警鐘であり、大学という権威の中で
人間の精神がすり減らされていく現実を鋭く浮かび上がらせた象徴的事件でした。
そして、
この事件がなければ東大全共闘も安田講堂事件も、
三島由紀夫との歴史的討論会も生まれなかったといわれるほど重要な転換点であり、
今なお大学の在り方や権威との関係を問い直す原点として語り継がれています。