EXECUTIVE BLOG
2024.3.10
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
野球の話から なかなか抜け出せません
本来なら 日本が植民地にならなかった 理由とか、
日本人の先祖が ユダヤではなかったか? 等の話にも進まなければなりませんでした。
又 ネタが大変だと話をしていたら ブラタモリの真似をして 私が
ぶらぶらして興味あるものの話をしたら良いですよ との提案を受けたりしています。
が 星野監督の恐れた人物は誰か??に進まなければなりませんが
ずっと 据え置きになっている 東京六大学最後の加盟校の東大の話に
一旦もどります。
東京六大学は 明治 法政 早稲田 慶応と強豪チームがあります。
これに立教大が加盟して 本来であれば 野球強豪の中央大学や青山学院などが
選ばれるはずだと思うのですが
何故東京大学が加盟できたのか??? が今日の話になります。
東京六大学野球リーグの最後の椅子、6番目の学校として名乗りを上げたのが東京大学は当時は帝国大学でした。
その前身である旧制一高は日本の野球の歴史を語るうえで忘れてはならない学校でなのです。
しかし、
現在、東大野球部では旧制一高の歴史は別物として扱っており、
東京大学野球部の創設は対外的には1919(大正8)年ということになっているそうです。
東大が入った理由は極めて明白なのです。
それは、
日本の最高学府として社会のあらゆる分野に多くの人材を輩出していた東大の存在が無視できなかったと言うのが最大の理由でした。
連盟の上層部は、
「今後リーグを運営していくうえで東大人脈を通した交渉が欠かせない」
と判断したからなのです。
そうでなければ、かつての一高時代に一世を風靡したとはいえ、
当時は他の5校に比べて明らかに実力の劣る東大に声がかかるはずはなかったなのです。
また、早稲田の監督でもあり 学生野球の父と言われた飛田穂洲が
一高の野球精神の信奉者だったこと、
明大野球部長・内海弘蔵が一高の出身で東大に多くの友人知人がいたこともリーグ加盟の大きな力となったと言われています。
1925年春、東京六大学野球リーグへの加盟に際して、東大は法政を除く4校と、
いわばテストともいえる試合をさせられました。
そこで東大は早稲田に1対9、慶応に2対4、明治に3対6、立教に1対3と
4戦全敗に終わったものの、各試合とも善戦したことが認められ、
秋からの正式参加となったのです。
そしてその時、東大の加盟に大きく貢献した1人の名投手がいました。
その名投手とは だれか???
かれは 後に戦死しますが
実は東京都に関するある方が この名投手のお兄様にあたる方です
この名投手とは誰か???
どんな活躍をしたのか???
この兄は 一体誰なのか??????
は
明日に続く、、、、。