EXECUTIVE BLOG
2024.10.18
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 宿場町の話しから
江戸時代に旅行ブームに火をつける事になったのが
十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」だったと言う話でした。
この物語の主人公が弥次さん喜多さんなんです。
今日は この本の粗筋の話に進む予定でしたが
ちょっとその前に、、、、
宿場と思いだすのが 五街道の中でも 一番有名な東海道で
そこに 五十三の宿場があった事から 東海道五十三次と言われていますね。
要するに 五十三の宿場があったとい訳です。
東京から京都までが 約500キロですから、
平均しますと約9キロごとに 宿場町があったと言う事になります。
当時の旅人は 電車も車もなく ただ徒歩のみです
この時代の普通の人の一日の移動距離が30キロだと言われていますね
と
考えますと、
京都まで 約16日間前後で行っていたと言う事になります。
天候の事もありますね、
特に大井川は川が増水すれば渡る事が出来ずに 何日もそこに留まる
事になってしまうでしょうし
箱根の険しい道では相当時間がかかったのでは と
今では想像できない苦労をされて移動していたのではと思います。
9キロごとに宿があれば 万が一 泊まる予定の宿がいっぱいの場合
もう一つ先の宿まで なんとか足を延ばせる距離ではなかったかと思います。
当時は野宿は禁止されていたので
万が一いっぱいの場合はどうしていたのでしょうか??
先に書いた木賃宿に 無理やりもぐりこんで 雑魚寝していたのでしょうか?
興味がつきませんね
ここで 私も勘違いしていた事がありました。
それは 東海道は 江戸から京都までではないのです。
実は京都が終点ではないのですね、
江戸時代の東海道は、江戸から京都までと、教科書やマスコミから刷り込まれていました。
どうして、京都までなの?かと勘違いしたのは
教科書に書いてある、歴史的背景は、
徳川家康が江戸に幕府を作るまでは、京都が日本の中心で
朝廷はそのまま京都に残ったので、京都との交通は重要だった、から。
と教え込まれていました。
しかし
江戸徳川時代の前の日本の中心は、豊臣秀吉のいた大阪です。
江戸時代に移っても、日本の経済の中心は大阪でした。
と考えますと
京都は大事でしょうけど、大阪はもっと大事だと言う事になります。
せっかく街道を整備するのであれば
常識的に考えて、大阪まで整備すると思うのですが、
日本人なら誰でも疑問に思うのではないでしょうか?
それで よく調べてみますと
東海道は53次ではなく 57次だったと言う事みたいです。
学校ではそんな事習ってなかったと言いたいですよね、、
そのあたりの話は
明日へ続く、、。