EXECUTIVE BLOG
2024.10.28
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
箱根駅伝の話しから
話しは再び 東海道五十三次の話に戻りました。
そして 東海道は実は五十三次の京都が終点ではなく
57次あって 終点は 大阪だったと言う話でした。
何故このようになったのかと言うと
徳川幕府の 江戸防衛の策が練られていたからなのです。
徳川幕府は 大名に参勤交代を命じでいたのは そこにコストをかけさせて
反乱の目が出ないようにするためだったと言う話でしたね。
他にも様々な策を練っているのですが 東海道57次にもその策が隠されているのです。
その前に 大名と言う言葉良く耳にしますね
大名行列とかです、 福岡には大名小学校と言う学校がありました。
いまでは 人口減少につき 廃校になりましたが、、
これは 昔大名が住んでいたエリアに出来たので 地名を大名で そこに出来た小学校は
大名小学校だと言う事になります。
ここで 疑問に思う事がありませんか?
大名があるなら小名もあって良いのではないのか??? と言う事です
大名の中でも規模の大きな大名は 大大名と言われていましたので
残りは藩の大小に関わらず 例え小藩でも 大名だったのでしょうか???
とか 興味が湧きますよね、、、
江戸期の封建君主の身分の話に限りっていいますと、
一万石以上の封建領主を一般に「大名」と言っていましたが
初期の武家諸法度では「五万石以上を大名、それ以下を小名」としていたんですよ、
その場合一万石~五万石が小名となります。
ただ、このあたりは家の格式などともからんでいろいろややこしく、
一万石以下でも大名として遇された家もあったようです。
ただ 私は あそこの藩は 小大名だとかの話は 聞いた事がありません。
話しは逸れてしまいましたが
江戸幕府は 組織防衛上色々な策を練っていたのです。
先にも書きましたが 関所を設けたり 橋を架けさせなかったりとかもそうです、
しかし そんな小手先の事よりも もっと大きな策を練る必要がありました。
これが 分かれば 東海道が何故57次かと言う事がわかります。
これを紐解く前に
徳川家康公は 亡くなったあと 大権現様と言われていますよね
そして 東照宮に神として祀られています。
栃木県にある日光東照宮へ祀られていますが
全国にある「東照宮」と名のつく神社は、
日光東照宮から勧請して(神の分霊を迎えて)建てられたものですから
そこにも 家康公は神として祀られていると考えて良いのです。
では そもそも大権現って何???とも思いますね、、
話しは
またまた 大きく逸れだしましたが
これが理解できないと 東海道が何故53次ではなく57次なのかの意味が
分からなくなるのです。
そんな事知らないでも 当時の大坂は 天下の台所の町だからだろ
と言ってしまえばそれまでですが
それでも裏には深い訳があるのですよ
徳川家が何故250年も続いたのか??
ありとあらゆる手を尽くして 徳川家継続の為の努力をしていたのです
その場限りでは こんなには長く続かなかったでしょう
こういう事を学ぶのも 会社継続をする者にとりまして学ぶべきところがあ
あるのではと思ってしまいます、
で この話は
明日へ続く、、、。