EXECUTIVE BLOG
2024.9.6
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日まで井伊直弼ネタが続いています
桜田門外の変から150年以上経った ある出来事の話に進まなければなりませんが
まだまだ 直弼ネタが続きそうです。
いつになったら 文明開化の話に良くつくのか?????
で
今日の話は
桜田門外の変で 井伊直弼は 薩摩藩浪士の有村から 首を刎ねられ その首を
彼は 刀に差して 歩いていたわけですから
目撃者が多かったのに関わらず あろうことか 幕府は 井伊直弼は病に倒れたと
言う事にしたのです。
誰もが そんなはずはないと思っていたでしょうが それを口に出来る程 まだ 幕府の
力は落ちてなかったのでしょう。
桜田門に一番近くにあった藩邸で桜田門外の変を目撃した藩は、豊後杵築藩です。
この藩邸の使用人たちも多数目撃してるはずですが 事件後幕府から強くかん口令が
しかれたそうです。
下手な事を言えば 取り潰しに遭うかもしれませんので、、
他に 登城の際には 護衛の武士の他にも 沢山の家来がいたのに
何故 数人で襲ってきた浪士達を 取り押さえられなかったかと言うのも疑問に
思う方が多いと思います。
これは 前にも書いていますが 当時の行列の体裁を整える為に
各藩は 今で言うところの人材派遣業者に頼んでいたのですよ、、
見た目は武士に見えますが 実は アルバイトだったと言うわけです
そんな連中が 我が殿をお守りする と言う気概など持ち合わせているはずがありませんね
それより 我先に逃げ出したのです。
皆自分の身が一番大切ですからね、、
まあ 多少は 本当の家来も居ましたが アルバイトが我先に逃げるのを見て
一緒に逃げた武士も多かったのです。
彼らは 我が殿を見捨てて 藩邸まで逃げ帰ったのですが
これが 後に大きな問題になります。
傷一つ追わずに戻ってきた武士は 今で言う所の職場放棄と言う事で
皆 切腹させられているのですよ。
浪士達の攻撃から逃げたまでは良かったですが
それでは示しがつかないと言う事と見せしめの為 泣く泣く切腹させられてしまったのですから なんとも言えませんね、
所で 当の直弼ですが 前にも書きましたが 藩主にはなれないと言う事でしたが
若いころから文武の稽古は怠らなかったそうです。
そして 直弼は居合の達人でもあったのです。
これは 攻撃側の浪士達も知っていたので 籠を開けずに 外から刀で突きまくったのです。
そして しばらくして 先の有村が 直弼を引きずり出すのですが
何故 直弼は 最初の攻撃の時に 籠から飛び出て 応戦しなかったのか???
の疑問が湧きますね、、、
彼ほどの達人であれば 怪我はしたにせよ 首まで刎ねられる事は無かったかもしれません
この件については ある事が考えれています
まだ 直弼ネタが続きそうですが
これらの話は
明日へ続く、、。