
EXECUTIVE BLOG
2025.6.21
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 楠木正成の話しでした
今日は その息子 楠正行の話に進みます、、、。
楠木正成の息子・楠木正行は、父の死後、その意思をしっかり受け継ぎ、
南朝のために戦い続けた若き武将です。
彼の人生もまた、父と同じように忠義に満ちたものでした。
正行がまだ十代の頃、父・正成は湊川の戦いで命を落としました。
そのとき、正行は「命を大切にしながら、主君に忠義を尽くせ」という父の言葉を胸に刻み、南朝の皇子・宗良親王とともに戦いの道へ進んでいきます。
若くして南朝の重要な武将となった正行は、頭がよく、戦もうまく、
敵である足利軍をたびたび困らせました。
特に奈良のあたりでは、山や川を利用したゲリラ戦を行い、
敵の食料や武器の運び道を断って、大きな成果を上げました。
また、父が拠点にしていた河内や摂津でも活動し、南朝を支える力となりました。
正行の名前が最も知られるようになったのは、1348年に起きた「四條畷の戦い」です。
この戦いでは、足利方の有力な武将・高師直の大軍と戦うことになりました。
正行は弟・正時とともに出陣し、すでに自分の死を覚悟していたといわれています。
戦いの前、正行は南朝の後村上天皇のもとを訪れ、
「私が負けて命を落としても、立派なお墓をつくっていただかなくて大丈夫です。
ただ、私の忠義の心を受け取ってください」と伝えたとされています。
この言葉からも、父と同じように、自分の命よりも忠義を大切にした姿がうかがえます。
四條畷の戦場では、正行は少ない兵を率いて、何度も敵に突撃しました。
勇敢に戦い抜きましたが、ついに弟とともに討ち死にします。まだ22歳という若さでした。
死後、その顔はとても穏やかで、清らかだったと伝えられ、
「死して腐らず」と称えられました。
正行の死は南朝にとって大きな痛手でしたが、
彼の忠義の心は多くの人に感動を与えました。
父とともに「忠義の親子」として後世に語り継がれ、江戸時代には講談や物語で取り上げられ、明治時代には教育の中でもその生き方が紹介されるようになります。
現在、大阪の四條畷には正行をまつる「四條畷神社」があり、今も多くの人が訪れています。
つまり、楠木正行は短い人生の中で、
父・正成と同じように「忠義とは何か」を全うした人物です。
時代は戦の続く不安な時代でしたが、彼は一度決めた信念を最後まで貫きました。
その生き方は、今も多くの人の心に残り、尊敬されています。
のですが、、、、
これらを利用したのが あれですよね、、、、
その話しは
明日へ続く、、、、、。