
EXECUTIVE BLOG
2025.9.1
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日まで八月でしたので
終戦から 戦後の動きについての話しでした。
今日は 戦後 占領軍が どのように 戦争犯罪人を定義して罰しようとしたのか???
の話に進みます、、。
太平洋戦争が終結し、日本は敗戦国として連合国の占領下に置かれました。
最高司令官マッカーサー率いる連合国軍総司令部(GHQ)は、
非軍事化と民主化という二本柱を掲げて改革を進めましたが、
その中でも大きな柱の一つが「戦争責任の追及」でした。
国民にとっては突然の敗戦に続く混乱の中で、
戦争を指導した人々がどのように裁かれるのかということは重大な関心事であり、
また連合国側にとっても、単なる報復ではなく
国際社会に新しい正義の形を示す試みでもありました。
連合国はまず、ヨーロッパ戦線でナチスドイツの戦争指導者たちを裁くため、
ニュルンベルクで国際軍事裁判を開きました。
ここでは、侵略戦争を計画・遂行したこと自体を
「平和に対する罪」として初めて法廷で問うという画期的な枠組みが採用され、
単なる戦場での残虐行為だけでなく、
国家の指導者が戦争を始めた責任そのものが訴追の対象とされました。
この考え方は、
当然アジア・太平洋戦争を起こした日本の指導者たちにも適用されることになります。
そこで、連合国は日本においても同様の裁判を行うことを決定しました。
これが後に「極東国際軍事裁判」と呼ばれるものです。
裁判実施の流れは、まずポツダム宣言にさかのぼります。
宣言の中で日本に降伏を求めた際、
「戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える」と明記されていました。
日本がこれを受諾して降伏した以上、
戦争を指導した者たちが処罰されることは既定の方針であり、
占領政策の一環として避けられないものだったのです。
戦争直後、日本国内では戦犯逮捕のニュースが連日流れ、
多くの国民が驚きと不安の目で見守りました。
最初に逮捕されたのは東条英機をはじめとする旧内閣の主要な政治家や軍人で、
彼らは戦争を計画し遂行した「A級戦犯」として指名されました。
連合国はA級に加え、
戦場で捕虜や民間人に対する虐待などを行った者を「B級」「C級戦犯」と分類し、
各地の軍事法廷で裁く方針を取りました。
ニュルンベルク裁判に倣って、
日本でも最高責任者を国際裁判にかけることになり、
その準備が急ピッチで進められました。
裁判所をどこに設けるかについては、首都東京が選ばれ、
旧陸軍省の庁舎が法廷に改装されました。
裁判官はアメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス、オランダ、オーストラリア、
ニュージーランド、フィリピン、インドの計11カ国から派遣され、
国際色豊かな顔ぶれがそろいました。
検察側もまた各国から構成され、アメリカのキーナン首席検察官を中心に、
莫大な資料を集めて公判準備を行いました。
問題は「何を罪とするか」という点でした。
戦争に勝った側が一方的に裁くのでは「勝者の裁き」と批判されかねないため、
国際法に基づいた新しい法概念が導入されました。
すなわち
「平和に対する罪」「人道に対する罪」「従来の戦争犯罪」という三本柱です。
これによって、日本の指導者たちは、単に敗戦の責任ではなく、
侵略戦争を起こしたこと自体や
残虐行為を許したことに対して裁かれることになりました。
こうした準備が整うまでには時間がかかり、
1945年末から1946年初頭にかけて、次々と容疑者が逮捕・収監されました。
巣鴨プリズンには東条英機をはじめ、重臣や将官が次々と収監され、
国民はそのニュースを驚きとともに受け止めました。
国民の間には「自分たちも戦争に協力したのに、
上層部だけを裁くのは不公平ではないか」という声もありましたが、
一方で「責任ある人が裁かれるのは当然だ」という意見も根強く、
社会全体に複雑な感情が渦巻いていました。
こうして準備が整い、1946年5月3日、ついに極東国際軍事裁判が開廷しました。
この日から、国際社会が注視する歴史的な法廷劇が始まり、
日本の戦争責任が公の場で断罪されていくことになります。
東京裁判の開始は、単なる一つの裁判以上の意味を持っていました。
それは、国際社会が初めて本格的に
「侵略戦争そのものを罪」として位置づけ、
戦争を始めた指導者を個人として裁くという、
新しい国際秩序の出発点でもあったのです。
マッカーサーの占領政策において、
この裁判は日本国民に対して戦争の責任を明確に認識させ、
軍国主義を根絶し、平和国家への転換を促すための重要な手段でもありました。
裁判の判決やその評価については今なお議論が続いていますが、
少なくともその開始に至るまでの経緯は、
敗戦から新しい世界秩序への橋渡しとして欠かせない歴史の一幕だったと言えるでしょう。