EXECUTIVE BLOG
2022.12.6
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
徳川家康が 征夷大将軍の位を朝廷から頂く事で
天下統一を行える幕府を開いたと言う話でした。
しかし この幕府も 王政復古の大号令により解体する事になるのですが
この引き金を引いたのは あろうことか 御三家の中の一つである 水戸藩が
関係していたのです。
将軍家を守るべき家柄であるのにも関わらず 過激藩士を押さえることができずに
桜田門外の変を起こしてしまったのです。
この幕末での水戸藩の話は 又後ほどでと言う事で
何故 御三家の水戸藩が 今の茨城県に配置されたのか?? から探ってみたいと思います。
常陸の水戸あたりは、徳川家武士と気性と価値観が合わない人々が特に集中し、
争いが多発する恐れがあったので、
徳川家自ら支配せざるを得ない地で北からの守りを固めるために 水戸にしたと言われています。
で次に興味が湧くのは テレビでおなじみの 水戸黄門ですが
ドラマの中にもよく出て来る セリフで 「この紋所が目に入らぬか!」と
一喝するシーンを目にします。
そもそも 副将軍でなんなのか???? ですが、
「副将軍」という役職は実在しない役職だったのです。
徳川御三家である尾張徳川、紀州徳川、水戸徳川の中でも水戸藩は参勤交代を免除されていました。
その為、将軍に伝える前にまずは水戸藩に伝えていた事から将軍の補佐をしていたと言われています。
ですが、この当時の参勤交代は徳川一族であっても必ず行わなくてはいけなくて、映画でもありましたが参勤交代では家来全員が移動するので相当の旅費が必要になります。
この出費によって大名たちの反乱を抑えていたのですが、何故に水戸徳川家は参勤交代をせず江戸に留まれたのか?
これは、実は水戸徳川家から将軍を出さないという約束と引き換えに
参勤交代を免除されたそうです。
その為、水戸徳川家は常に将軍と共に江戸に居た事から
「副将軍」と呼ばれるようになったという事になっています。
水戸黄門は俗名で、
正式には水戸藩2代藩主 徳川光圀で武家官位は権中納言でした。
この時代では名前をそのままいう事は禁じられていたので、
藩や官位で呼んでいました。
権中納言の唐名は黄門なので、水戸藩主の権中納言→水戸黄門となり庶民からは黄門様と親しまれていたと言われています。。
位の中納言は将軍を除いて上から6番目の官位で
御三家の尾張徳川と紀州徳川は大納言で1つ上の位になります。
これからしますと 水戸藩は 御三家の中では一番格下という事になります。
そうは言っても 天下の副将軍です
ドラマの中では 葵の紋所を見せると 皆、平伏すシーンが出ますね、
しかし 黄門達が 葵の紋所を見せても平然としていた人がいました。
誰もが平伏す 葵の御紋なのに
その人は全く動じなかったのです
一体どういう事????
その人は誰???????
それは???
明日に続く、、、、。