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社長&顧問ブログ

2022.8.31

江戸末期

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 明治維新の話で

もし 戊辰戦争で 徳川が勝っていたらどうなるかへ

今日は繋がるのですが、

 

先日 歴史を 古い方から順番に見ていくのではなく

新しい方から 見て行くと 因果関係が分かると言う話を書きました。

 

それでもって

戊辰戦争を見てみますと

官軍と言われる方は 薩摩藩と長州藩が中心でした。

この二藩を見てみますと 関ヶ原の戦いで

徳川方の東軍に こてんこてんにやっつけられた藩でした、

 

関ヶ原の戦い後 徳川幕府は何度も薩摩藩を潰そうと仕掛けをしてました。

その一つが宝暦の治水工事を命じた話です

又 長州藩は 百万石もあったのが 萩に追いやられ 三十数万石まで

小さくされてしまっていたのです。

 

いまだに 会津の人が長州に対して恨みを持っているように

関ヶ原の戦い以後 毎年 長州藩が新年を迎える時に

殿様に対して 「江戸総攻撃の準備が出来ました」 と家臣が挨拶をすると

殿様は 「まだ機は熟していない」 と答えていたと言うのです。

 

これを 約260年間も続けていたわけですから

関ヶ原の恨みは とてつも無かったのではと思ってしまいます。

 

そして いよいよ 幕末になって

幕府に対して 恨みを持った 薩摩と長州が手を組んで 天下を奪うと

目論んだのではと思います。

 

徳川慶喜は賢い方でしたから

戦う前に 大政奉還を行い 朝廷に 将軍職を返納して 恭順の姿勢をみせるのですが

 

こうなると 薩長は手が出せません

何が何でも 追い込みたいと考えた 西郷隆盛が 浪人を使い江戸に火を付けたりしたものですから

当時江戸を守っていた 荘内藩士により 薩摩藩邸を焼かれ

それを 口実に 江戸総攻撃の口火が切られたのでした。

 

何がなんでも 打倒徳川でしたので そこで 更に どこで見つけてきたのか?

だれの作戦かは 詳しく分かりませんが

錦の御旗を掲げることにより 完全に徳川軍を 賊軍とすなわち 反逆者にしたて上げたのです。

 

その後 薩長を中心に富国強兵策が取られ 日本は列強と同じく 海外に進出するのです

 

しかし 徳川幕府はそれまで 海外進出など考えず むしろ逆の鎖国を貫き

見方によっては 平和主義で争いを好まなかったように見えます

 

争いが起こりそうになる前に 色々な 手を使って治めていた気がします。

 

このようなDNAを引いた 徳川家が やはり 争いを好まない 天皇家と

手を組んでいたのであれば

 

もしかしたら 明治以後の日本は 争いに巻き込まれずに 平和な国家だったかもしれません

しかし そんな事では 日本は列強の餌食になり やがては 植民地化されてしまうのだ

と言う方も居ると思いますが

 

歴史に(もしも)はありませんから 今ある姿が現実ですが

 

軍隊の基礎を作った 薩長が 天皇の名のもとに との標榜をかかげ

自分達に楯突くものは 全て朝敵で賊軍になると 日本中を洗脳してしまったのでは

と思います。

 

これにより 昭和天皇でさえ 利用されてしまい

太平洋戦争開戦を承諾させられてしまったのでは とも思ってしまいます。

 

先日 愛媛県の松山に行った時に

明治時代の偉大な軍人の生家で 彼が 残した言葉を見て

やはり 江戸時代に生まれの明治の軍人は しっかりしていると思いました。

逆に 明治に生まれて昭和の軍隊に入った軍人は、

生まれた時から戦争に負けた事もなく

日本は天皇を中心にした神国であるとの妄想の元に

無謀な戦いを行ったのではと思います

 

明日は 明治の英雄で 松山出身の

あの軍人の話へと、、、。

 

彼は 一体 後世の軍人に何を残したのか?????

 

それは?????

 

明日に続く、、、、。。。

高光産業株式会社 公式サイト

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