
EXECUTIVE BLOG
2025.12.5
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは
旧暦から新暦に移行するのに 国民が戸惑ったと言う話でした。
今日も その続きとなります、、、。
明治六年一月一日、
つまりそれまでの暦でいえば明治五年十二月三日にあたる日、
日本の人々は史上初めて“新暦で迎える元日”を体験しました。
しかしこの歴史的な瞬間は、
後世の私たちが想像するような全国的なお祝いムードとは程遠く、
むしろ「静かで不思議で、どこか実感のない正月」であったことが、
様々な史料や日記から浮かび上がってきます。
まず町人や商人たちの反応を見ると、
「静かな元日だった」「正月らしさが全くない」という声が多く残されており、
理由は新暦導入があまりにも突然だったため、
門松やしめ縄、餅つきといった年越しの準備がまったく追いつかなかったからです。
古い記録には
「新年といえども飾りも乏しく、町は例年の華やぎに欠けたり」と書かれており、
いつもは賑わうはずの正月が、
まるで“ただ日付が変わっただけの日”のように感じられたことが分かります。
さらに商家では、旧暦で約束していた締め支払いや取引の基準が突然変わってしまい、
「支払いをどう処理するか」「旧暦と新暦のどちらで約定を扱うか」
という混乱が収まらないまま元日を迎えたため、
祝う余裕などほとんどありませんでした。
まさに“慌ただしい年明け”という空気に包まれていたのです。
一方、一般庶民の多くは
「本当に今日が正月なのか」という強い戸惑いを抱いていました。
旧暦の正月は“春の訪れ”の象徴であり、
寒さが緩み、自然の気配が変わる季節に迎えるものでした。
ところが新暦の一月一日は厳冬の真っただ中で、
自然のサイクルと心の節目がまったく一致しません。
ある村の日記には「寒き中、正月というが実感わかず」とあり、
別の記録には「餅も飾りも間に合わず、ただ日付改まるのみ」と記されており、
多くの庶民が“正月らしさゼロ”の元日を過ごしたことが読み取れます。
そのため農村部では、新暦の元日を簡素に済ませ、
旧正月(旧暦一月一日)を改めて盛大に祝うという地域が全国に存在しました。
つまり明治初期の日本にはしばらくのあいだ、“正月が二つある”という状態が続き、
新暦の元旦は仮の正月、旧暦の元旦が本番という感覚が根強く残っていたのです。
武家あがりの人々や知識層の反応は対照的で、
新暦導入を文明開化の象徴として歓迎する声が多くありました。
洋装を始めた若者や外国語を学ぶ層にとって、
新暦での元日は“欧米と同じ時間を生きる証”であり、進歩の象徴でした。
しかしこの近代化への高揚は庶民にはほとんど届かず、
知識層がひとりで盛り上がっている状態であったと考えられます。
寺社の世界ではさらに複雑な混乱が起こりました。
神社も寺院も長く旧暦に基づいて祭事を行ってきたため、
「祭日をいつにするか」「参拝はどちらの正月に合わせるか」という問題が発生し、
地域によっては村人同士が議論になるほどでした。
記録には「例年の祭礼の日取りが合わず、参拝者も迷い多し」と残されており、
宗教行事の混乱は想像以上に大きかったことが分かります。
政府や官吏の側にとってこの元日は、
「祝いの気分」よりも、「何とか事務作業を終えた」
という感覚の方が強かったといわれます。
新暦採用の理由は、表向きには天文学的な合理性でしたが、
実際には“閏月ぶんの給料を払いたくなかった”という財政事情が大きかったため、
役人たちは改暦を急いだ背景をよく知っていました。
つまり政府側にとって新暦の元旦は、
政治的判断の結果として訪れた“業務の区切り”であり、
華やかな祝賀の雰囲気とはほど遠いものだったのです。
こうして国のさまざまな層の反応を総合すると、
明治六年一月一日の元日は、庶民は戸惑いと違和感、商人は混乱と慌ただしさ、
農民は自然のリズムとのずれに困惑しつつ旧正月も祝う形を続け、
知識層は近代化の象徴として歓迎し、寺社は新旧の行事の折り合いに苦心し、
政府は財政的事情からの事務的対応に追われるという、
実に多彩で複雑な元日の姿が浮かび上がります。
つまり、国民全員が「明けましておめでとう」と声を揃えて祝ったわけではなく、
日本の新しい時代の幕開けは、華やかでも盛大でもない、
“静かで不思議で、どこか実感のない元日”として始まったのです。
日本人が長く親しんできた旧正月の文化と、
新しく導入された西洋型の暦が交錯したこの瞬間は、
まさに近代化の揺れを象徴する出来事であり、
明治という激動の時代を生きた人々の戸惑いと希望を
静かに映し出した出来事だったといえるでしょう。