EXECUTIVE BLOG
2024.10.5
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 紀尾井町にある弁慶橋の話しでした。
しかし 武蔵坊弁慶とは 関係なく 弁慶さんと言う棟梁の名前から来た
橋だったのです。
で、武蔵坊弁慶といえば、源義経の忠臣として知られ、義経を守るために立ったまま亡くなったことで有名ですが、
いったいどんな人物だったのかまで ご存知の方は少ないかと思います。
京都の五条大橋で元服前の義経と出会い、その能力に惹かれたことをきっかけに主従関係を結び、度重なる危機を救いながら最後まで義経を守ったとされていますが、
弁慶に関する伝承の多くは脚色されたもので、歌舞伎の勧進帳とかでは見た事があるものの、実際はどうだったのかよく分かっていませんね、、
武蔵坊弁慶の出生地については諸説ありますが、紀伊国と出雲国が有力とされています。
伝記「義経記」によりますと
通常赤ちゃんは10っか月で産まれてきますが 弁慶は18ヶ月してやっと生まれたと
されていますから驚きです
更に驚く事に、生れた子どもは3歳くらいの大きさで、
肩が隠れるほどの長い髪を生やし、奥歯も前歯も生えていたため、
父親は水中に沈めるか山で磔にするように考えたそうなんです。
しかし、哀れに思った父の妹が、その子を下さいと申し出たので、
弁慶は叔母の養子になり、その後 鬼若と言う名前を付けられて
その後、鬼若は法師になるために、比叡山に預けられました。
比叡山で生活を始めた鬼若は学問の覚えが早く、
誰よりも学問ができるようになりましたが、
立派な体格だったため、相撲や腕押しなどの力勝負を好んで行うようになり、
やはり 力が強いと喧嘩ばかりしたため 比叡山から追い出されたようです。
そして 鬼若が 何故弁慶と言う名前になったかと言いますと、
自ら髪を切り落として、悪行で有名な西塔の武蔵坊の名前を継ぎ、
父の弁昌と、弁昌の師匠である観慶から1字ずつもらい、
武蔵坊弁慶と名乗った事になっているのです。
このように武蔵坊弁慶が 誕生したと言うわけですね、、、。
では どうして牛若丸と出会う事になったのかの話しですが
悪事を働くようになった弁慶は
人が持っている刀を1000本奪い取ろうと考え、夜な夜な京都の町中に現れて太刀を奪い続け、その数はとうとう999本になったのです。
そして
弁慶が最後の1本を奪うために待ち構えていると、まだ若い男が笛を吹きながら近づいてきたのでした。
その男が見事な太刀を身に付けていたため、弁慶は何としてでも奪い取ってやろうと思います。
この時は弁慶は知らなかったのですが、この男こそ源氏の御曹司である源義経だったと言うわけなのです。
弁慶は牛若丸に挑みかかりましたが、彼は攻撃をかわして欄干の上に飛び上がり、
弁慶の胸を蹴り飛ばしました。
この場面が 京都五条大橋の出来事で 今像が建っている所なんです。
しかし 実はここで 終わったわけではなかったのです、、
返り討ちにあった弁慶は、今度は清水寺の門前で牛若丸を待ち構えます。
そして、弁慶は再び牛若丸に挑み、力の限り打ち合いましたが、反対に打ち込まれてしまいました。
弁慶に馬乗りになった牛若丸が「私に従うか」と言うと、
弁慶は「負けたのだから従おう」と答え、
ここで弁慶は後の義経の家来となり、 数々のドラマが生まれていくと言う事になるのです、、、
昔 なんかの本では読んでいたとは思うのですが
詳細を思い出すのは難しいですよね、
後 弁慶のイメージとして有名なのは 勧進帳を読む場面と
体中に矢が刺さったシーンです
これらの話は
明日へ続く、、、。