EXECUTIVE BLOG
2025.3.11
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 二・二六事件の青年将校の事件後の話しでした。
今日も まだ 二・二六事件の話を続けたいと思います。
事件では 多くの政府要人の命が狙われました。
今日は その中の一人である 渡辺錠太郎の話に進みます。
1936年(昭和11年)2月26日、日本の首都・東京は歴史に残るクーデター未遂事件
「二・二六事件」に揺れましたね。
皇道派の青年将校たちは、「昭和維新」を掲げ、政府高官や軍の指導者を次々と襲撃。
その標的の一人となったのが、陸軍大将・渡辺錠太郎であった。
今日はなぜ彼が狙われたのか。その背景を見てみます、、、。
今の方には全く理解できないと思いますが、
当時の日本陸軍には、大きく分けて「統制派」と「皇道派」という二つの派閥が存在していました。
統制派とは
軍部の近代化と総力戦体制の確立を目指し、官僚的な統制を重視。経済界とも連携し
戦争遂行のための国力強化を図り、軍内部の統制を重視し、
急進的な行動には慎重な立場を取っていた派閥ですね
一方の皇道派は
天皇親政の実現を理想とし、政治家や財界の影響を排除。軍の直接行動によって
「昭和維新」を成し遂げようとする急進的な思想を持っていた派閥でした。
この対立は、単なる意見の相違にとどまらず、
軍部の人事や政策にも大きな影響を与えていたのです。
そして、渡辺錠太郎は統制派の中枢にいたため、
皇道派の青年将校たちの敵と見なされてしまったのでした。
では渡辺錠太郎とは何者か? と言う事になりますが
渡辺錠太郎は、愛知県出身の陸軍軍人で、陸軍大学校を優秀な成績で卒業しました。
軍の中枢で活躍し、教育総監という要職に就いていたのです。
この教育総監とは、
陸軍の教育機関を統括し、将来の軍指導者を育成する役割を担うポジションでした。
渡辺は、軍の規律を重んじ、皇道派の急進的な思想に反対する立場を貫いていた人物です。特に、青年将校たちの政治介入や武力行使による国家変革の動きを強く批判し、
彼らを抑え込もうとしていたのです。
そのため、皇道派の将校たちにとって、彼は排除すべき存在になり命を狙われたのです。
1936年2月26日午前5時頃、
反乱軍の一部は渡辺錠太郎の自宅を襲撃しました。
20名以上の兵士が押し寄せ、家の中に乱入したのです。
渡辺は、家族とともに寝室にいたが、兵士たちは彼を連れ出そうとしました。
しかし、渡辺はこれに応じませんでした。
その時、
当時9歳の彼の娘・渡辺和子が父を守ろうとして必死にしがみついていたのです。
それでも、青年将校たちは躊躇なく銃を乱射し、
渡辺錠太郎はその場で命を落としてしまったのです。
享年62歳。娘の必死の叫びもむなしく、
彼は二・二六事件の犠牲者の一人となってしまいました。
しかし、彼の死をもってしても二・二六事件は成功には至らず、
かえって日本軍の統制は強化されることになりました。
この事件は、日本の軍と政治の関係を大きく揺るがし、
後の歴史にも影響を与えたと考えられます。
渡辺錠太郎の悲劇的な最期は、
軍部の派閥争いがどれほど深刻だったかを物語るものでした。
そして、
それが日本の運命をも変えたことを、私たちは忘れてはならないのですが、、、。
この時 渡辺錠太郎の死を目の当たりにしていた 娘和子は、、
その後、、、、、
どうなったのか????
は 明日へ続く、、、。