
EXECUTIVE BLOG
2025.4.16
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 加賀藩の話しでしたが
今日も これに続きます、、、。
1827年、加賀藩13代藩主・前田斉泰が、時の将軍・徳川家斉の娘である溶姫を正室に迎えました。
この出来事は、当時の政治状況から見ても非常に異例なものだと思われていました。
なぜなら、将軍家の姫が嫁ぐ相手は、原則として親藩や譜代大名とされており、
外様大名である加賀藩はその対象外とされていたからです。
にもかかわらず、百万石の加賀藩が将軍家から姫を迎えることができたのには、
双方の思惑と歴史的な背景が絡み合った特別な事情があったのではと考えられます。
加賀藩は、徳川幕府成立当初から特別な存在でした。
豊臣家に近い血筋を持ちながら、関ヶ原の戦い以後は幕府に恭順の姿勢を示し、
百万石という圧倒的な石高を誇っていました。
この巨大な財力と軍事力は幕府にとって常に警戒すべき対象でありながら、
一方でその力を利用したいという本音もあったのでしょう。
加賀藩もまた、自らの存在が幕府にとって「潜在的な脅威」であることを理解しており、
積極的に幕府との関係を深め、信頼を得るための努力を続けていました。
溶姫との縁組もその一環であり、
幕府と深く結びつくことで、加賀藩の立場をより安定させようという意図があったのです。
一方、将軍家側にも事情がありました。
溶姫の父である徳川家斉の時代は、いわゆる「大奥政治」の時代とも言われ、
家斉自身が非常に多くの子女を抱え、その養育と縁組には多くの政治的配慮が必要でした。
家斉は将軍としての在位期間が50年近くに及び、その間に権力は将軍個人から老中や大奥に移りつつあり、幕府全体の統制力も緩み始めていたのです。
そうした中で、外様とはいえ莫大な財力と影響力を持つ加賀藩と縁を結ぶことは、
むしろ将軍家の権威を保持し、
幕藩体制の均衡を保つための一つの方策だと考えたのでしょう、、、。
つまりこの縁組は、単なる政略ではなく、
加賀藩の外交的な戦略と、幕府の内部事情がたまたま一致した結果だったと考えられます。
また、家斉は非常に娘を可愛がったことで知られ、
溶姫の縁組には家斉の個人的な「娘かわいさ」も影響していたとも考えられています。
加賀藩の財力と格式は、溶姫を嫁がせるにふさわしい先として申し分なく、
大奥の意向や家斉自身の親心が政治に作用したとも考えられます。
こうして実現したこの縁組は、加賀藩にとっては幕府の中枢に食い込む絶好の機会であり、幕府にとっては外様との新たなバランスを築くための挑戦でもありました。
このように、加賀藩が御台所を迎えるに至った背景には、
単なる「格式破りの縁組」では語り尽くせない、幕府と加賀藩双方の計算と事情があったのです。
そしてこの縁組を通じて、加賀藩はますます幕府内での地位を高めていきますが、
時代は徐々に幕末へと向かい、さらに複雑な政治状況へと進んで行くのです。
幕末に入ると、加賀藩の中でも意見は大きく分かれ、
尊王攘夷を唱える急進派、公武合体を支持する穏健派、
そして従来通りの佐幕派などが入り乱れ、藩内は一枚岩ではなくなったのです。
しかし、藩の上層部は慎重な姿勢を取り続け、安易にどちらか一方に加担することを避けました。
1868年、鳥羽・伏見の戦いが起こると、加賀藩は幕府軍を支援することはせず、
直接的な新政府軍への参加も控えるという中立的な態度を取りました。
この中立姿勢が功を奏し、結果的には新政府側から敵視されることなく、
明治維新後も比較的穏やかな待遇を受けることになったのです。
明治政府は、新体制の正統性を確立するために、
旧幕府の親藩や譜代大名を厳しく処分しましたが、
加賀藩はその中でも「協力的であった」と評価され、前田家の名誉は守られたのです。
加賀藩最後の藩主・前田慶寧は、華族制度が始まると侯爵に叙され、
前田家は「旧大名の名門」として新時代でもその存在感を保ちました。
その後も、学術や産業、文化の分野で積極的に貢献し、近代日本の発展に寄与していきます。
このように、加賀藩が御台所を迎えるという一件は、
時代背景の中で偶然が生んだものではなく、幕府の内部事情と加賀藩の計算が交差した、
極めて戦略的な出来事だったのです。
そして、その後の幕末という激動期においても、加賀藩は状況を冷静に見極め、
安易な行動に走ることなく慎重に舵を切ったことで、新政府からの信頼を得て、
名門として明治時代を生き抜くことに成功したのです。
このしなやかな政治感覚と柔軟な対応力こそが、
百万石の家が明治以降も存続し続けた最大の理由だったのではと考えれます。
という事は
だからか????
の話は・・・・
明日に続く、、、。