EXECUTIVE BLOG
2024.7.14
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
帝国陸軍の最大の作戦失敗と言われた
インパール作戦の話でした。
明らかに困難と思われた作戦を牟田口司令官が実行して
大失敗したために 後年最悪の将軍とのレッテルは貼られてしまいました。
作戦の失敗だけをみれば 愚将と言われても仕方がないでしょうが
彼は 亡くなる寸前まで 自分は間違っていなかったと発言していました。
先に書きましたが 私の部下のおじいさまが このインパール作戦の生き残りの兵士で
そのおじいさまは 亡くなる寸前まで
「今目の前に 牟田口が居たら絞め殺してやる」 と言う言葉を残していたそうです。
このような恐ろしい言葉を発するほどですから 如何に 兵士にとって過酷な任務であったのかをうかがい知れます。
しかも 戦死ならともかく 戦わずして多くが病気か餓死だったのですから
死んでも死に切れませんね
これだけしか聞かないと なんと牟田口は酷い将軍だったのかと思わざるを得ませんが
牟田口将軍は 何故インパール作戦を遂行しなければならなかったのか???
と思いますね
戦局が厳しくなる中 インドをイギリスから独立させ イギリスの力を
削いでしまおうと言う 日本側の戦略がありました。
牟田口廉也中将がインドに革命を起こしたかった理由は、
いくつかの要因が絡んでいますが、、
日本軍はインドを直接武力で占領することは難しいと考えていましたが、
インド国内で反英運動を活発化させることで、イギリスの支配を揺るがし、
戦局を有利に進めることを狙っていたと言う事なのです。
当時、インドの反英運動の指導者であるチャンドラ・ボースと言う人物は、
日本軍の支援を受けて自由インド仮政府を設立し、インド国民軍を組織していたのです。
日本側もボースと協力してインド国内で反英運動を起こすことを期待していました。
それで牟田口中将は、大本営の指示に従い、
インド進攻計画を実行することが政府軍部指導者の意図に沿うものであり、
自身の戦意を示すためにも重要だと考えていたのでした。
これらの要因が重なり、牟田口中将はインドに革命を起こすことを目指して
インパール作戦を実行したのです
当時の軍部の事を理解すれば分かりますが 大本営作戦指導部の方針が出た以上
現場の指揮官は そのために最善を尽くさなければならないのです。
インパールだけの 事を見れば 牟田口中将は愚将に見えますが
それまでは 勇敢な将軍で 大きな戦果をいくつも成し遂げているのです
それで 作戦指導部は 牟田口であれば インパール作戦を成功に導けると
考えていたのではと思います。
その為に 多くの犠牲が出たために 後年色々言われますが、
結局は 大惨敗に終わったこの作戦
見方を変えれば 歴史的な大きな役割を果たしたとも言えるのです
その話は????
明日に続く、、、、。