
EXECUTIVE BLOG
2025.12.26
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日まで語られていたクリスマスの物語は、
「誕生」という希望に満ちた場面でしたが、
そこから少し視点を進めると、
人類史の中で繰り返し現れる「死と不在」という重いテーマに行き着きます。
キリスト教の中心人物であるイエス・キリストは、
十字架刑、すなわち磔という当時最も残酷とされた処刑方法によって命を奪われました。
しかし福音書の記述によれば、その後、墓に葬られたはずの遺体は見当たらず、
復活という出来事が語られます。
世界各地に「イエスの墓」と称される場所は存在しますが、
歴史的・考古学的に確定された墓は存在せず、
そこに遺骨が納められているという事実も確認されていません。
つまり、イエスは処刑され、確かに死を迎えたと信じられていながら、
「遺体が残されなかった存在」として、二千年を超えて語り継がれてきた人物なのです。
同じように、イエスの母である聖母マリアについても、
カトリックや正教会の伝承では「被昇天」あるいは「就寝」と呼ばれる出来事が語られ、
地上の墓や遺骨の存在は公式には認められていません。
各地にマリアの墓と伝えられる場所はありますが、いずれも信仰上の象徴であり、
遺骨を安置する実在の墓として確定したものではありません。
ここには、
肉体の不在がかえって精神的存在感を強め、信仰や思想として生き続けるという、
人類史における不思議な構図が見えてきます。
一方で、時代も宗教も異なりますが、
現代日本の歴史にも、同じ「遺体なき死」という現実が存在します。
1948年12月23日、
東京裁判において死刑判決を受けたA級戦犯七名が処刑されました。
彼らの遺体は火葬された後、その遺骨は遺族に返還されることなく、
連合国側の管理のもとで海へ散骨されたとされています。
そのため、遺族の手元には遺骨が残らず、
後に建立された墓所や慰霊碑があったとしても、そこには実際の遺骨は存在しません。
ここで重要なのは、
遺骨を返さなかったという行為そのものが、単なる事務的判断ではなく、
「象徴を残さない」という強い政治的・心理的意味を帯びていた点です。
遺体や墓は、
人々が記憶を集約し、感情を重ね、時に思想や運動の拠点となる力を持ちます。
それを意図的に断つことは、
存在そのものを歴史から消し去ろうとする試みでもありました。
しかし現実には、遺骨がなかったからといって記憶が消えることはなく、
むしろ「なぜ遺骨が存在しないのか」という問いが、
新たな物語や議論を生み続けています。
イエスやマリアの場合、それは信仰という形で昇華され、
戦犯たちの場合は、戦争責任や歴史認識をめぐる終わらない議論として残りました。
宗教的存在と政治的存在を同列に論じることはできませんが、
「肉体が消え、墓に骨がない」という一点において、
人間は時代や立場を超えて共通の現象に直面しています。
そこから見えてくるのは、
人の存在価値が必ずしも物理的な遺骸によって規定されるものではない、
という厳然たる事実です。
墓があり、骨があり、名前が刻まれていても忘れられる人がいる一方で、
墓も骨もなく、それでも語り継がれ、影響を与え続ける存在もいるのです。
人は死によって終わるのではなく、
死後にどう記憶され、どう語られるかによって、別の形の「生」を持ち続けます。
クリスマスの光から磔刑の闇、そして現代史の処刑へと視線を移すとき、
私たちは「死体がない」「骨がない」という共通項を通して、
記憶と象徴、そして人間が歴史とどう向き合うのかを改めて考えさせられます。
存在を消そうとしても消えないもの、残そうとしても残らないもの、
その狭間にこそ、
人間社会の本質が静かに横たわっているのではないでしょうか。