EXECUTIVE BLOG
2023.6.25
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 青森ネタから 話が北海道になりました。
今日は 北海道にはあるモノが無いと言う話でしたが
話は またまた逸れます、、、、。
北海道は 昔蝦夷と呼ばれていましたが
その開拓を推し進めたのが 老中 田沼意次だったのです
田沼老中は いろいろ悪い話もあるようですが
その田沼は 何故蝦夷開拓を急いだのか???
その最大の理由は、対ロシア対策だったのです。
今 ロシアはウクライナ侵略を行っていますが
同じ様な事が 江戸時代にも起きる可能性があったのです。
徳川吉宗が将軍だった、元文4年にロシア船が、オホーツク海から、
牡鹿半島沖、外房沖を回り、伊豆の下田に来航した事件がありました。。
これは、鎖国以後の日本に外国船が初めて来航した事件で、
一般的にはあまり知られていませんでしたが元文の黒船と呼ばれ、
日本と外国との領土領海問題が、初めて認識された大事件だったのです。
この事件の後、政権を担ったのが田沼意次でした。
田沼はロシアの南下への対策を講じる事が急務と考えました。
だから、従来、松前藩に任せきりだった、蝦夷地対策を、
幕府が自ら行うと決定したのです。
しかし具体的に何をするか、というのは決まっておらず、
まずは蝦夷地調査をしなければならいと考えていたようです。
程なくして、田沼は失脚してしまいますが、その意思は、他の幕臣にも引き継がれ、
近藤重蔵、最上徳内、間宮林蔵らの蝦夷地探検・調査に、繋がっていくのです。
この困難極める調査の話などは
明日に続く、、、。