EXECUTIVE BLOG
2023.3.1
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 二・二六事件の 首謀者が処刑された場所が
今の渋谷の NHKセンターの辺りだったと言う話でした。
二・二六事件は 同じ日本軍同士が もしかしたら戦うかもしれなかったのです。
しかしここは 天皇陛下が激怒したことにより 反乱軍の目論見は外れて
投降して事態が収拾することになるのですが
なぜ 同じ日本軍なのに いがみ合う事になったのか??
については なかなか 分かり難い点があるかと思います。
どんな組織にも派閥があるように
日本陸軍の中にも派閥があったのです
それが 皇道派と統制派です。
それぞれどんな考えを持っていたのかですが、、、。
簡単に言いますと
皇道派は
今の国家体制をぶち壊して天皇親政を実現し、天皇の名の下に一挙にして軍事政権を築き上げるという事を主張していた一派で
統制派は
今の国家体制を維持しつつ、要職を軍部の息のかかった人物で独占することで
軍事政権を築き上げると言う考えを持った一派でした。
両者のイメージは、幕末の状況にとても似ているのです。
皇道派の思想は幕府を倒して新政権樹立を目指した倒幕派で、
統制派は、江戸幕府の刷新を通じて政治改革を目指した親幕派に当てはまるようです。
倒幕派と親幕派が、
『日本を列強国から守るためには改革が必要』と同じ目標を持ちつつ、
『どうやって日本を改革すべきか?』という点で対立したように、
皇道派・統制派も同じ目標を掲げて、その手法について対立したという事になります。
1920年頃、陸軍を裏で支配していたのは陸軍出身の元老、山県有朋でした。
この人物 その後歴史的にみてあまり評判が良くなく
軍部が力を持つ仕組みを作った人物といっても良いかもしれません
この話も 別途にするという事で
山県有朋は、長州出身者を中心に自らの息のかかった軍人・官僚を要職につけ、長州閥と呼ばれる派閥を作ったのです。
明治維新の時から長州は至るところに権力を作っていましたが、
陸軍の中には長州閥を嫌う者も多く出て来たのです。
その代表人物の一人が永田鉄山と言う人でした。
先日 明治は遠くなりにけりの話をかきましたが
この永田鉄山はその後 暗殺されてしまうのですが
私が 就職してしばらく経った 昭和60年頃だったか
新聞に小さな記事で 永田鉄山夫人の訃報記事が出ていました。
私にとりましては 永田鉄山と言う人は 歴史上の人物で相当昔の出来事のような
気がしていましたが
その奥様が 平成時代近くまで生存していた事には驚きました。
昭和には まだ 明治の香りが残っていたという事になります。
では なぜ 永田鉄山は暗殺されてしまったのか?????
彼が生きていれば 東條英機は出て来れず もしかしたら戦争に突入しなかったかも
しれないと言われていました。
その
真相とは???
それは????
明日に続く、、。