
EXECUTIVE BLOG
2025.11.16
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 三島由紀夫が盾の会を作るまでの話しでした、、、、。
今日は その続きです、、、。
盾の会は、三島由紀夫が一九六八年に結成した私設の精神訓練団体であり、
日本の伝統精神を若者に受け継がせるという理念のもとに生まれた集団でした。
しかしその本質は、単なる思想団体や政治結社ではなく、
三島自身の人生観と美学を体現する“精神武士団”のような存在でした。
政治革命を目指す武装勢力でもなく、国家権力奪取を狙う過激な活動家集団でもなく、
むしろ三島が文学者として長年抱いてきた
「言葉と行為の一致」を実践するための象徴的な舞台として作られた組織だったのです。
会員の多くは大学生で、最盛期には百名ほどに達し、
彼らは自衛隊の協力を得ながら厳しい体力訓練と規律を身につけ、
礼節、責任、自己犠牲といった価値観を学び、
戦後日本が失いかけた精神的緊張を取り戻そうとしていました。
盾の会の訓練は単なる武術や体力強化ではなく、
日常生活の細部にまで精神を磨く姿勢が求められました。
三島は会員に対し、国家とは何か、日本人としての誇りとは何かを繰り返し説き、
言葉だけで理想を語るのではなく、身体と行為を通じて示す生き方を求めました。
戦後社会の豊かさの中で緩んでいく精神性に対する危機感を抱き続けていた三島は、
盾の会を通じて「新しい武士道」を体現しようとしたのです。
しかし活動が進むにつれ、三島の思想はさらに強く、さらに切実な形に深まっていきます。
文学や講演会で日本の精神的危機を訴え続けても、
社会全体を揺り動かすことはできないのではないかという焦燥が彼を支配し始めました。
三島にとって自衛隊は国家そのものの象徴であり、同時に“眠れる巨人”のような存在でした。
戦後憲法によってその力と誇りを奪われ、名目上の組織として縛られている現状に対し、
彼は深い失望を抱いていました。
自衛隊自身が精神的に覚醒しなければ
日本は独立国としての主体性を取り戻せないという思いが、
彼の内面で次第に強まっていきます。
そしてついに三島は、自らの信念を直接自衛隊に訴えかけることこそ、
残された唯一の行動だと確信するようになります。
一九七〇年十一月二十五日、三島は盾の会から選抜した四名とともに市ヶ谷駐屯地を訪れ、東部方面総監を人質にして総監室のバルコニーに立ちました。
隊員数百名を前に、三島は憲法によって国家の根幹が弱体化していること、
自衛隊が誇りを取り戻さねばならないこと、
日本が精神的に再生するには今こそ行動が必要であることを熱く訴えました。
しかしその言葉は期待したほど隊員の心に響かず、
ざわめきや嘲笑にかき消されていきました。
三島はその瞬間、計画の成功を断念し、
最終目的である“行為による美の完成”へと向き合う覚悟を決めたと言われています。
そして三島は総監室に戻り、割腹自決という壮烈な最期を遂げました。
この死は絶望の果てではなく、
生涯追い求めた「言葉と行為の完全な一致」を実現するための最終表現であり、
文学者としての最期ではなく、
美学者・思想家としての絶頂に位置づけられるものでした。
彼の行動は日本国内だけでなく世界に大きな衝撃を与えましたが、
それは単なるセンセーショナルな事件ではなく、
戦後日本が見失いかけていた精神性への警告であり問いかけでした。
盾の会はその思想の象徴として重要な役割を果たし、
三島の最期の行動は、今もなお多くの人々に議論と影響を与え続けています。