
EXECUTIVE BLOG
2026.10.1
高光産業株式会社
妹尾八郎です
昨日までは 番外編が入りましたが、
今日から戻って 谷根千文豪物語の続きになります、、、、。
これまで、
森鴎外、夏目漱石、幸田露伴と、
谷根千や本郷周辺にゆかりのある文人たちをたどってきました。
そして今日は、石川啄木の話になります、、。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり」
この歌を知っている方は多いと思います。
学校で習った方もいるでしょう。
けれども、改めて啄木の人生をたどってみると、
私は少し違った思いでこの歌を読むようになりました。
なぜなら啄木は、
ただ「貧しさ」を詠んだ人ではなかったからです。
夢を持ち、失敗し、借金を抱え、家族を支え、病気と向き合い、
それでも言葉を書き続けた人でした。
そして、わずか26歳で人生を終えました。
啄木は岩手県に生まれました。文学を志し、東京へ出てきます。
しかし、生活は決して安定しませんでした。
本郷周辺でも何度も住まいを変えています。
赤心館。
蓋平館別荘。そして理髪店「喜之床」の2階。
文京区の資料にも、
啄木が本郷周辺でたびたび引っ越しを繰り返したことが残されています。
現在の私たちから見れば、
「石川啄木」というだけで、有名な歌人です。
しかし当時の彼は、
生活に悩み、仕事に悩み、家族を抱え、将来も見えない、
一人の若者でした。
歴史上の人物は、後から見ると完成された人のように見えます。
けれど、その時を生きている本人には、
自分が後世に名前を残すかどうかなど分かりません。
啄木も同じだったのです。
今回又興味深く感じたのは、
啄木もまた森鴎外の観潮楼とつながっていることでした。
鴎外は1907年から自宅の観潮楼で歌会を開きました。
そこには与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱、斎藤茂吉など、多くの歌人が集まりました。
そして、その中に石川啄木もいたのです、、、。
私はここに、不思議なつながりを感じたのでした。
朝参りしている根津神社。そこに移築された「舞姫の家」。
そこから森鴎外を知り、鴎外の観潮楼へ進み、
そしてその観潮楼に、若き石川啄木も足を運んでいた。
一つの場所から、次の人へ。一人の文豪から、また別の文人へ。
町を調べているつもりが、
気がつけば人と人とのつながりを調べているのです。
啄木の代表作の一つが、『一握の砂』です。
1910年に出版されました。
そこに収められた歌は、決して難しい言葉ばかりではありません。
生活の苦しさ。故郷への思い。家族への思い。自分への苛立ち。
人間関係。働くこと。そして、孤独。
とても身近な感情が詠まれています。
だからでしょうか、
百年以上前の歌なのに、今読んでも、「分かるなあ」
と思うものがあります。
人間の生活は変わりました。
電車が走り、スマートフォンがあり、世界中と一瞬でつながる時代になりました。
しかし、
働いても思うようにならない。人に分かってもらえない。
故郷が懐かしい。自分はこのままでよいのだろうか。
そんな心の動きは、
百年前も今も、それほど変わらないのかもしれません。
苦労は、できればない方がよい
ここで一つ、誤解してはいけないと思います。
私は、「苦労した方がよい」と言いたいのではありません。
できることなら、
苦労は少ない方がよい。病気もしない方がよい。お金に困らない方がよい。
それは当然です。
啄木自身も、決して苦しい生活を望んだわけではないでしょう。
しかし、
人生にはどうしても避けられない苦しい時間があります。
思うようにいかない時。何をしても結果が出ない時。先が見えない時。
そんな時、
「この時間には何の意味もない」と思ってしまうことがあります。
けれども、本当にそうでしょうか。
あの苦しい時間が、後で何かに変わることがあるのでは、、、
石川啄木の歌が今も残っているのは、
彼が人生の明るい部分だけを書かなかったからではないでしょうか。
情けない自分。弱い自分。生活に追われる自分。思い通りにならない自分。
れも隠さず言葉にした。
だから、その言葉が、
同じように苦しんでいる誰かの心に届く。
もし啄木が順風満帆の人生を歩んでいたら、
今の私たちが知る『一握の砂』は生まれていなかったかもしれません。
人生は不思議です。
その時には、「なぜこんな目に遭うのだろう」と思ったことが、
何年も後になって、誰かを理解する力になっていたりします。
苦労したから、苦労している人の気持ちが分かる。
失敗したから、失敗した人を責めなくなる。
遠回りしたから、急いでいる人に「大丈夫だ」と言える。
経験は、その時にはただの痛みでも、
後になって人への優しさに変わることがあります。
啄木は1911年、本郷から小石川へ移ります。
その頃、啄木自身も母親も病気を抱えていました。
翌1912年3月には母が亡くなります。
そして、その約1か月後。
1912年4月13日。啄木自身も肺結核のため亡くなりました。
26歳でした。
26歳。今の感覚で考えると、
人生はまだ始まったばかりという年齢です。
やりたいことも、書きたいことも、
まだたくさんあったでしょう。
それでも、人生はそこで終わりました。
しかし、
啄木の言葉は終わりませんでした。
百年以上たった今も残っています。
長く生きたかどうかだけではない
啄木の人生を知ると、
私は、「人生の長さとは何だろう」と考えます。
長生きできることは、本当にありがたいことです。
けれども、
長く生きれば必ず何かを残せるというものでもありません。
反対に、短い人生であっても、
誰かの心に長く残るものを残す人がいます。
啄木は26年しか生きませんでした。
しかし、その26年間に感じたことを書き残しました。
そして、
その言葉を今も私たちは読んでいます。
そう考えると、人生で大切なのは、
「何年生きたか」だけではなく、「与えられた時間をどう生きたか」
なのかもしれません。
今日という一日も、人生の一部なのです、、
私たちは、今日一日くらい、何となく過ごしてもよいと思ってしまいます。
明日がある。来週がある。来年がある。
そう思います。
もちろん、未来を信じて生きることは大切です。
しかし、今日という日は、二度と戻りません。
啄木の26年間も、一日一日の積み重ねでした。
笑った日。悩んだ日。借金に困った日。歌を書いた日。
家族と暮らした日。病床に伏した日。
そのすべてが、「石川啄木の人生」になっています。
私たちも同じです。
何も特別なことがなかった一日も、
あとから振り返れば、
自分の人生をつくった大切な一日なのかもしれません。
人生には、「こんな時間は早く終わってほしい」
と思う時があります。
けれど、
その時間もまた、自分の人生の一部です。
苦しかった時間を好きになる必要はありません。
失敗を美化する必要もありません。
ただ、
その時間まで無駄だったと決めつけなくてよい。
そう思います。
もしかしたら、
今日の苦労が、
十年後の自分を支えるものになるかもしれない。
今日の失敗が、
誰かを助ける知恵になるかもしれない。
今日流した涙が、
誰かの涙を分かってあげられる心になるかもしれない。
啄木の言葉が百年以上残っていることは、
そんなことを教えてくれているような気がします。
私にとって谷根千は、
根津神社へ参拝する、生活の中の身近な町でした。
しかし、
森鴎外を知り、夏目漱石を知り、幸田露伴を知り、
そして石川啄木を知ると、
同じ町が少し違って見えてきます。
百年以上前、この辺りを歩きながら、
夢を持った人がいた。
生活に困った人がいた。
誰かに認めてもらいたいと思った人がいた。
病気と闘った人がいた。
そして、
それでも言葉を書き続けた人がいた。
歴史とは、
偉人だけの物語ではありません。
同じように迷い、悩みながら生きた、人間の物語なのだと思います。
明日の朝も、
私はいつものように根津神社へ向かいます。
そして、
今まで何気なく歩いていた道を歩きます。
けれど、
この町に啄木のような若者が生き、悩み、
言葉を残したことを知った今、
昨日とは少し違った道に見えるかもしれません。
そして私は、自分自身にも問いかけてみたいと思います。
今日という一日を、ただ過ぎていく一日にしていないだろうか。
人生には、
順調な日も、苦しい日もあります。
しかし、
どちらも自分の人生です。
楽しかった日だけで、
人生がつくられるわけではありません。
苦しかった日も、遠回りした日も、思うようにならなかった日も、
全部重なって、今の自分になっている。
石川啄木の短い人生と、百年以上残り続ける言葉を知って、
私はそんなことを考えました。
さて、谷根千には、言葉とはまったく違う方法で、
自分の思いを残した人物もいました。
詩を書きながら、、、、、、アレもした、、、、、、
のアノ人は誰か???
は
明日に続く、、、。