
EXECUTIVE BLOG
2025.7.26
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 八紘一宇の話しでしたが
この文字が刻まれている石碑が宮﨑にあります。
中学の時に修学旅行でそこに行った事がありましたが 良く意味も分からず見ていた記憶があります。
今日は 何故 宮崎に 八紘一宇の石碑があるのか? の話に進みます、、、
宮崎に「八紘一宇」の石碑が建てられている理由は、
神武天皇の神話的出発地としての地理的・歴史的意義と、
昭和初期の日本における国家思想・外交戦略の象徴として
「八紘一宇」が再解釈されたという、宗教的・政治的両面の背景に基づいています。
この石碑は昭和15年(1940年)に、
紀元2600年(神武天皇即位から2600年)を記念して建設されました。
具体的には、
宮崎県宮崎市の「宮崎神宮」近くの「平和台公園」内に建立されたもので、
正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」といいますが、
一般的には「八紘一宇の塔」と呼ばれています。
この塔の建立には、
国家神道と軍国主義が融合した当時の国家政策が深く関与しており、
当時の内務省・大政翼賛会など国家機関の主導のもとで進められました。
まずなぜ宮崎に建てられたのかという点ですが、
神武天皇が東征に出発した地が宮崎であるとされているからです。
神武天皇は『日本書紀』によれば、日向(現在の宮崎県)から船出して大和に向かい、
日本を統一する旅を始めました。
この神話に基づいて、宮崎は日本建国の出発点=「建国神話の聖地」とされ、
戦前日本においては「国家の原点」として特別な意味を持つ土地とされました。
したがって、
神武天皇の理想とされた「八紘一宇」の理念を象徴的に具現化する記念碑は、
その始まりの地にこそふさわしいと見なされたのです。
次に「誰が建てたのか」ですが、
直接的には政府の主導、具体的には内務省・宮崎県当局・軍部が中心となり、
民間からの寄付や奉仕も動員されて建立されました。
設計は建築家・日名子実三によるもので、
朝鮮半島から切り出された花崗岩が用いられ、
朝鮮総督府が石材の調達を担当したことも大きな政治的意味を持ちます。
塔の高さは約37メートルに及び、
正面には「八紘一宇」の文字が力強く刻まれています。
これらはすべて、当時の国家的祝賀ムードと軍国的気運を背景に、
国民の忠誠心と皇国思想を強化する目的を持って構想されたものでした。
その政治的背景として極めて重要なのが、
当時の日本が満州事変(1931年)・日中戦争(1937年)・
そして太平洋戦争へと突き進んでいた戦時体制下にあったということです。
この時期、日本政府は
「皇国史観」に基づいて天皇中心の国家体制を強化しようとしており、
その思想的支柱として「八紘一宇」のスローガンが積極的に採用されました。
特に「紀元2600年」という節目を迎えた昭和15年には、
国家による祝賀行事が全国規模で展開され、
学校教育・神社・マスコミなどを通じて国民の精神動員が進められました。
「八紘一宇」はもともと『日本書紀』にある神武天皇の言葉から引用された古語ですが、
昭和初期には「世界を一つの家族として包摂する」という意味に再解釈され、
いわば「日本が中心となって世界を導く」という大義名分に転化されました。
これが戦時中の大東亜共栄圏構想と結びつき、
「アジアの解放」というスローガンのもと、
日本による大東亜支配の正当化装置として利用されたのです。
つまり八紘一宇の塔は、宗教的神話に立脚しながら、
当時の政治的プロパガンダを象徴的に担う
「国家装置」として建立されたものといえます。
また、この塔が朝鮮半島の石材を使用しているという点にも注目が必要です。
これは「日本は朝鮮を同胞として取り込んでいる」
という当時の植民地政策の象徴であり、
さらに大陸政策への布石でもありました。
塔の設計に朝鮮総督府が関わっていた事実は、
日本の植民地支配を「和の理念」の中に包み込むことで、
支配構造を正当化しようとする狙いを如実に示しています。
総じて言えば、宮崎に八紘一宇の石碑が建てられたのは、
という多重の政治的・思想的目的に基づいています。
そしてそれは、宗教的神話と近代国家のイデオロギーが重なり合う中で形成された、
一種の「国家的象徴装置」だったといえるのではと考えられます。
明日は 神武天皇のお考えとあの方のお考えが????
の話に
続く、、、、。