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2025.8.6
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 10月に 日本の神々が出雲大社に集まると言う話でした。
天皇陛下が出雲大社には参拝しないと言う話を耳にした事が
ある方も多いかと思います。
今日はこの話に進みます、、、。
天皇陛下が伊勢神宮には参拝される一方で、
出雲大社には原則として参拝されない、という点について、
多くの人が疑問を抱かれるのは自然なことです。
両者ともに日本を代表する神社であり、
どちらも神話と深く関わる場所であるにも関わらず、
伊勢神宮と出雲大社では天皇の関わり方に明確な違いが存在しているのは、
確かに不思議に感じられます。
しかしそこには歴史的・宗教的・政治的な背景が複雑に絡み合っているのです。
まず伊勢神宮は皇祖神である天照大神を祀る神社であり、
天皇家の祖先神とされる存在です。
日本書紀や古事記によれば、天照大神は高天原において最高位の神であり、
その子孫が地上を治めるために遣わされたのが
天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)であり、
その流れが後に神武天皇として即位し、初代天皇となるのです。
この神話的な系譜は天皇の正統性の根幹を成しており、
伊勢神宮への参拝は、
天皇家にとって祖先に対する御礼と国家安泰を祈る極めて重要な儀式とされています。
実際、歴代天皇は古くから伊勢への崇敬を示し、
直接の参拝こそ長らく行われなかったものの、
勅使の派遣や神宝の奉納などを通じて、特別な関係を築いてきました。
明治天皇以降は実際に伊勢神宮へ行幸されるようになり、
現在の天皇陛下も即位の後、伊勢神宮を訪問して儀式を行うことが慣例となっています。
一方、出雲大社に祀られる大国主大神は、
日本神話における「国造り」の神として知られています。
大国主はかつて地上の国土を支配していた神であり、
のちに高天原の命を受けた天照大神の子孫である天孫に国を譲り渡します。
これを「国譲り神話」と呼びますが、
ここに伊勢と出雲の神々の関係性の微妙な違いが現れてくるのです。
天照大神が
「天の神」として国を治める立場にあり、
その子孫が天皇という「現人神」として地上に君臨するという体制の中で、
大国主大神は
一歩引いて「目に見えぬ世界」を治める神としての位置づけに変わっていきます。
これはあくまで神話における象徴的な話ではありますが、
神社の格式や皇室との関係においても
この神話構造が色濃く影響を与えているのです。
出雲大社は非常に古い歴史を持つ神社であり、
その神威は全国的に高く、朝廷も古くから崇敬してきましたが、
天皇家との直接的な結びつきは伊勢神宮ほどには深くありません。
むしろ、出雲大社は独自の神事体系と伝統を有し、
古代の出雲王朝や出雲族との関連性を語られることもあります。
そうした背景から、
出雲大社は伊勢神宮のような「皇祖神を祀る場」ではなく、
ある意味で「国譲りによってその地位を引いた神」を祀る場という性格を持ち、
天皇の参拝対象としては位置づけが異なっていたのです。
もちろん、だからといって
天皇が出雲大社を敬っていないということでは決してありません。
たとえば勅使の派遣や幣帛の奉納などは行われており、
国家としての敬意は十分に表されています。
ただし、天皇自らが参拝するという行為には
極めて象徴的な意味が含まれるため、
伊勢神宮のように「自らの祖神に参る」行為とは性質が違うのです。
さらに、戦後における皇室と神道の関係の変化も、
この問題に少なからず影響を及ぼしています。
日本国憲法下では政教分離の原則が定められ、
天皇の神事への関わりも
「公的」か「私的」かという議論が常に伴います。
その中で、伊勢神宮は「皇室の私的行事」としての性格を強く持ち、
継続して参拝が行われているのに対し、
出雲大社はより一般的な「国民の信仰対象」としての性格が強く、
天皇の参拝が控えられている側面もあります。
実際、過去を振り返っても
天皇が公的に出雲大社へ参拝した記録はほとんど存在しません。
厳密に言えば、戦後に一部の皇族方が私的に訪問されたことはありますが、
現職の天皇が「御親拝」された例は確認されていないのが実情です。
これは決して出雲大社が格下というわけではなく、
それぞれの神社が果たす役割と皇室との関係の違いに起因するものです。
なお出雲大社は、毎年10月に「神在祭」が行われることで知られています。
全国の神々が出雲に集まり、
様々な縁を結ぶ会議を行うという伝承に基づく祭りです。
これにちなんで全国的には10月を「神無月」と呼ぶのに対し、
出雲だけは「神在月」と呼ばれます。
このような出雲独自の神事体系も、
皇室が深く関わることを控える一因となっているのかもしれません。
また政治的・宗教的な観点から見れば、
天皇が出雲大社を参拝することは
「国譲りを受けた側の子孫が、譲った神に礼を尽くす」
という構図にもなり得るため、
慎重な判断がなされているとも考えられます。
天皇の存在は単なる象徴にとどまらず、
日本文化や伝統、国家の統合の象徴でもあるため、
その行動一つひとつが極めて重みを持ちます。
だからこそ、その参拝先や意味には細心の注意が払われているのです。
つまり、天皇が伊勢神宮に参拝されるのは
皇祖神としての天照大神に対する信仰の表れであり、
皇室の系譜における当然の行為として確立されているのに対し、
出雲大社への参拝が行われないのは、
出雲の神が持つ独自の神格と歴史的経緯によって、
あえて距離が保たれているためなのです。
それは対立や無関心ではなく、むしろ深い敬意の表れでもあります。
それぞれの神が果たす役割と、皇室との距離感の絶妙なバランスが、
今日の参拝の形として表れていると言えるでしょう。