EXECUTIVE BLOG
2023.5.18
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 鑑真和尚の銅像の話から 遣唐使の話になってしまいました。
遣唐使では一時海賊に間違えられるなどのトラブルはあったようですが、
唐から手厚い歓待を受けたほか、空海・最澄が派遣され仏教教学の研究に勤しみ、
日本に本格的な密教文化を伝えることになるなどに活用されていました。
その遣唐使がやがて衰退していくのですが
それは
唐が国家の統制下とは言え民間の貿易を認めるようになっていったので、
唐からの物的なつながりは遣唐使以外のルートも確保されたので
存在意義は薄れていったのです。
そして
その後唐が滅亡したことで、
遣唐使の歴史は終わりを迎えることになったと言う事です。
この日中の文化の懸け橋だった遣唐使は、そうは言え簡単な航海では無かったと思います。
東シナ海を越えて中国大陸へ赴くという任務を果たすためには、
船で海を渡らなければなりません。
また、総勢500人規模に及ぶ規模だったそうですので、
船は4隻単位で運航され、船団方式となっていたそうです。
しかし命の危険とは隣り合わせものだったと思われます。
但し、最近の研究によりますと
遭難については例えば船団全体が全滅したり、毎度のように必ず船が沈没していたといったような悲惨な状況ではなく、概ね数隻程度の喪失であったと推定されているそうです。
今のようにGPSはおろか、羅針盤すらない時代ですので、どうやって航海していたのか??にも疑問が湧きますし、
遭難しなくても「どこにたどり着くかはその時の流れ」であり、
到着時も帰国時も漂着のような形だったのではと推測されます。
船のデザインや技術については、確実な歴史史料が残っているとは言い難い状況で、
どのような船だったかは はっきりわかっていないようですが
今で言えば小型漁船程では無かったかと思います。
そんな船で 何と無謀だ!と思ってしまいますが
それ以上に 日本としては知識を取得したい 又 鑑真ら僧侶は 仏教の教えを広めたいとの一心で 危険と分かっていても 航海したのでしょうね
この航海では 鑑真だけでなく
空海や最澄 や 歌人として有名な山上憶良等が往来していたのですが。
彼らは 生き残ったので 今でもその名前が残っていますが
もしかしたら 彼ら以上の人物も多数遣唐使を利用していたかもしれませんが
これを知る術もありません。
たまたま 生きて航海に成功したので 名を残したのだと思います
これに似た話では 先日も書きました 太平洋戦争末期の日本軍による
学徒動員では 優秀な学生が戦地に赴き 多くの優秀な学生が命を落としました
もし 彼らが 招集去れなければ戦後の日本は別な発展を遂げていたかもしれませんが
歴史にif は禁物ですね
遣唐使の時代の 優秀な僧侶も沢山命を落としたと思います
彼らが生きていれば 仏教の発展も違うものになっていたかもです
で その仏教
その後日本でどのように発展したのか???
は
明日に続く、、。