
EXECUTIVE BLOG
2025.10.19
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは クーベルタンの努力で IOCが出来た話でした。
今日は 第一回大会に参加した 13か国はどこか? 等の話に進みます、、、。
近代オリンピックの第1回大会は1896年、ギリシャのアテネで開かれました。
正式名称は「第1回オリンピック競技大会」。
参加した国は13か国で、
具体的にはギリシャ、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、スイス、オーストリア、
デンマーク、ハンガリー、スウェーデン、チリ、イタリア、
そしてオーストラリア(当時はイギリス領)でした。
これが人類史上初めての「国際的なスポーツ大会」と言ってよく、
国旗を掲げての参加という点では、まさに“平和の象徴”となる新しい時代の幕開けでした。
しかしそこに至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。
まず、クーベルタンがオリンピック復興を提唱した1894年当時、
世界はまだ植民地主義と列強争いの真っただ中で、
ヨーロッパ諸国は互いに軍備拡張と経済競争を繰り広げていました。
そのような時代に「スポーツで国が手を取り合う」などという理想は、
夢物語のように聞こえたのです。
フランス国内でも「金の無駄だ」「国威発揚にならない」と批判されましたし、
他国の政府も公式には関心を示しませんでした。
オリンピック運動は、国主導ではなく、
民間のボランティアと学者、教育者たちの手によって支えられたものでした。
開催国ギリシャにも複雑な思いがありました。
古代オリンピック発祥の地としての誇りがありながらも、
当時のギリシャは財政難で、内戦や政治混乱に苦しんでいました。
最初にクーベルタンが提案した際、
ギリシャ政府は「そんな贅沢な大会を開く余裕はない」と拒否しました。
ところが、民間の有志たちが「これはギリシャの名誉をかけた事業だ」と立ち上がり、
銀行家ゲオルギオス・アヴェロフが私財を投じて、
古代のパナシナイコスタジアムを復元しました。
白い大理石で造られたこの競技場が、オリンピック復活の象徴となったのです。
各国の参加にも多くの苦労がありました。
アメリカからはボストンの大学生を中心としたチームが参加しましたが、
当時は大西洋を渡るだけでも数週間を要しました。
スポンサーもなく、選手たちは自費で船に乗り込み、
途中で嵐に遭うなどの困難を乗り越えてアテネに到着したのです。
中でもマサチューセッツの学生ジェームズ・コノリーは
「学業を休んででもオリンピックに出たい」と教授に直訴し、
退学同然の形で旅立ちました。
彼は三段跳びで見事に優勝し、近代オリンピックの最初の金メダリストとなりました。
この話は後に「理想のためにすべてを捧げた若者」として語り継がれ、
クーベルタンの理念そのものを象徴する逸話となります。
フランスやイギリスも参加しましたが、当初は国としての派遣ではなく、
あくまで個人やクラブ単位の参加でした。
まだ「国際大会」という概念が曖昧だったため、
ユニフォームも統一されず、国旗もなかった選手が多かったのです。
中には選手自身がどこの国を代表しているのか曖昧なケースもあり、
後年になってから記録上で「この選手は実はこの国出身だった」と修正された例もあります。
一方で、出場したくてもできなかった国も多くありました。
例えばロシア帝国は当時、国内が不安定で交通網も未発達だったため、
出場できませんでした。
またアジア・アフリカの国々は、ほとんどがまだ植民地支配のもとにあり、
オリンピックという舞台に立つ自由がありませんでした。
日本もまだ明治時代の近代化の途上であり、
国際スポーツという概念がほとんど知られていなかったため、
第1回大会には参加していません。
日本が初めて参加するのは1912年のストックホルム大会、
金栗四三と三島弥彦の2人からでした。
オリンピックは理想的な平和の祭典として構想されたものの、
当初は「先進国のヨーロッパ中心のイベント」だったのです。
それでも、クーベルタンは
「やがて世界中の国々がこの理念に共鳴して集う日が来る」と信じ続けました。
彼は政治家や貴族の支援を断り、学生や市民に直接訴えかけて運動を広げました。
その熱意が少しずつ世界を動かし、アテネ大会は結果的に大成功を収めます。
スタジアムには6万人の観客が集まり、王室も出席して表彰式が行われ、
ギリシャ国民は歓喜に沸きました。
クーベルタンはこの光景を見て涙を流し、
「夢が現実となった」と語ったと伝えられます。
こうして第1回オリンピックは、
戦争と分断の時代に「平和の灯」をともす最初の一歩となったのです。
そこには、参加できた国々の勇気と、参加できなかった国々の時代的な限界、
そして何よりも人間が理想に向かう力の美しさがありました。