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社長&顧問ブログ

2024.10.23

第一回箱根駅伝

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです。

 

昨日までは 金栗四三さんが マラソンで

54年8月6日5時間32分20秒3というマラソンの世界最遅記録を持っていると

言う話でした。

 

色々な事があったのでしょうが スウェーデン人がこのような粋な計らいをしてたのは

素晴しい事だと思います。

 

その背景には 金栗さんのマラソンに対する情熱があったからだこそと思います。

 

この思いが 後の 箱根駅伝と繋がって行くのですが

今日はその話に進みます、、。

 

金栗さんは マラソン世界記録を3度もだしている方でマラソンの父と呼ばれるまでに

なられた方です。

 

このマラソンの父が東海道駅伝競走の成功を体験し、

「世界に通用するランナーを育成したい」

という思いから考案したのが箱根駅伝だったのです。

 

ただ、彼は最初から箱根駅伝を計画していたわけではありません。

 

この当時、金栗氏はすでに日本中を走破していたため、

「日本はもう走り尽くした」と考えていました。

 

そこで駅伝徒歩競走に刺激を受けた金栗氏は、

さらに桁外れなスケールで長距離ランナーを育てたいと考え、

なんと「アメリカ大陸横断駅伝大会」を計画したのです。

そして

箱根駅伝はその予選会として考案されたと言うわけです。

 

金栗氏が勤務していた当時の東京女子師範学校など6つの大学がこの案に賛成して

「学生マラソン連盟」を組織し準備を進めました。

 

彼の呼びかけに応じて長距離を走れる選手を揃える事ができたのは

それは明治大学・慶応大学・早稲田大学・東京高等師範学校の4校だけでした。

 

最終目的はアメリカ横断でしたが、

これでは1区間20km走れる学生を10名集めることが出来ません。

 

アメリカ大陸横断駅伝は不可能だが

何とか駅伝を行いたいと思いで 他の駅伝を考えて

1920(大正9)年2月14日・15日に、

「四大校駅伝競走」の名で東京・箱根間往復駅伝が初開催されたのです。

 

この時のスタートは午後1時。これは午前中に授業があると言う理由からでした。

今では考えられない事ですよね、、

 

その結果、箱根の第5区にたすきが届いた頃には日も暮れてしまい、

地元の人たちが松明で道を照らしていたそうなんです。

 

この駅伝、往路は明治大学が優勝。

復路で東京高等師範学校が逆転優勝を果たしたのでした。

 

何をするにも 最初がありますね

 

そこに辿り着く事が大変なのですが

金栗さんのマラソンに懸ける気持ちが 周囲を動かしたのだと思います。

 

一度出来てしまえば 後は それを継続するだけですが

 

今の様にテレビ中継され 正月の風物詩となったのは かなり最近の話しだと

思います。

 

しかも 何故 箱根でなければならなかったのか?

 

しかも 一月に、、、、

 

その訳は?????

 

の話は

 

明日へ続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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