
EXECUTIVE BLOG
2025.8.19
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 占領軍最高指令官のマッカーサーの話しでした。
今日は 終戦直後の日本政府の動きについての話に進みます、、、。
昭和二十年八月十五日、玉音放送が流れ、
日本国民は戦争が終わったことを知りました。
長く続いた大東亜戦争は、
広島と長崎への原子爆弾投下、そしてソ連参戦によって、
ついに終止符を打たざるを得なくなったのです。
しかし、
終戦を迎えたからといってすべてが穏やかに収まったわけではありませんでした。
敗戦という未曽有の事態の中で、
政府はどのように進路を切り開こうとしたのか。
そこには死をもって責任を果たした軍人、揺れる閣僚、占領軍に立ち向かう外交官、
そして皇族を首相にいただくという異例の決断が重なり合う、
緊張の物語がありました。
終戦当日の朝、陸軍大臣・阿南惟幾はひそかに腹を決めていました。
前夜の御前会議で、ついに天皇が終戦の大詔を下され、
軍部としても従わざるを得ないことになった。
しかし、長年の戦争指導に責任を負う一人として、
自分だけが生き延びてよいのかという思いが彼の胸を締め付けていました。
阿南は最後まで「一死をもって大罪を謝す」と語り、
割腹によって自らのけじめをつけます。
その姿は、陸軍の暴発を抑えつつも、
軍人としての名誉を守ろうとした矛盾に満ちた選択でした。
後に残された者たちは、阿南の死に込められた
「もう戦争を続けてはならない」という強い意志を感じ取ったといわれます。
阿南の死は、鈴木貫太郎内閣に大きな影を落としました。
鈴木は八十歳を超える高齢の宰相で、
老躯を押して終戦処理を担った人物です。
彼は会議の席上で
「わしの命はもう長くない。だからこそ、この役目を引き受けたのだ」
と語ったと伝えられます。
だが、阿南という柱を失い、内閣は役割を終えたと感じざるを得ませんでした。
終戦からわずか二日後の八月十七日、鈴木内閣は総辞職を表明します。
では、新しい内閣を誰が担うのか??。
帝国憲法下では総理大臣の任命は天皇の大権事項でしたが、
実際には元老や重臣らの合議によって候補が調整され、
最終的に天皇が任命するという手順がとられてきました。
敗戦直後の異常な状況下では、
国内の秩序を保ち、占領軍に対しても威信を示す必要がありました。
ここで白羽の矢が立ったのが、皇族の東久邇宮稔彦王です。
皇族を首班にいただくというのは極めて異例のことでした。
だが、国民が敗戦の衝撃に打ちひしがれる中で
「天皇を中心に国は一つである」という象徴を示すには、
皇族首相こそがふさわしいと判断されたのです。
東久邇宮は陸軍軍人でもあり、同時に政治的手腕も評価されていました。
彼は就任の際、「一億国民総懺悔」という言葉を用い、
国民全体が責任を分かち合うべきだと訴えました。
その言葉は敗戦を誰か一人のせいにせず、
全体で受け止めようとする苦渋の表現でもありました。
しかし、内閣の最大の使命は、
占領軍を受け入れ、日本の行政を継続させることでした。
八月三十日、
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ちます。
背の高い軍服姿のマッカーサーは、
サングラス姿で片手にパイプを持ち悠然と歩く姿を見せ
敗戦国日本に強烈な印象を与えました。
このとき日本政府の代表としてマッカーサーに会見したのが外務大臣・重光葵です。
重光は義足で、階段を上る際には足を引きずるようにして進みました。
その姿は敗戦国の使者としての痛ましさと同時に、
毅然とした覚悟を示すものでもありました。
会見の場で彼は
「日本は天皇陛下の詔勅に基づき、無条件降伏を受け入れる」と述べ、
今後は占領軍の指令に従って行政を行うことを約束しました。
マッカーサーは冷静にそれを受け止め、
重光を通じて日本政府を「執行機関」として利用する道を選びます。
行政官僚や既存の機構を温存したまま、
占領政策を進める方が効率的であると判断したからでした。
九月二日には東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式が行われます。
日本側からは重光葵と参謀総長・梅津美治郎が出席しました。
甲板の上で重光は義足を引きずりながら署名台に進み、
震える手でサインを行いました。
その瞬間、
世界は日本の敗北を法的に確認し、戦争は名実ともに終わったのです。
以後、日本政府は占領軍の指令を受け、改革を進めることになります。
だが、東久邇宮内閣はわずか五十四日で退陣を余儀なくされました。
戦争責任を問う声が国内で高まり、
さらに占領軍が要求する民主化改革に十分対応できなかったためです。
続いて誕生した幣原喜重郎内閣は、
マッカーサーと緊密に協力しながら新憲法の制定や農地改革などを進めていきます。
こうして振り返ると、終戦直後の数か月は、
日本が「軍国国家」から「民主国家」へと急速に転換していくための、
きわめて濃密な時間だったことがわかります。
阿南惟幾の自決は、
軍人としての責任と同時に「これ以上の流血を避けよ」
という無言の訴えでもありました。
鈴木貫太郎は老骨を押して終戦を成し遂げ、
東久邇宮は皇族としての権威をもって国民をまとめようとした。
重光葵は敗戦国の代表としてサインを行い、
幣原は新しい時代への橋渡しを果たしました。
そのすべての営みは、
混乱と絶望の中で「国家の形をどうにか保つ」という必死の努力の積み重ねでした。
もし誰か一人が役割を放棄していたら、あるいは軍が暴発していたら
日本はより大きな混乱や分断に陥っていたかもしれません。
マッカーサーの統治は日本社会を大きく変革しましたが、
それを受け止め、具体的な制度へとつなげたのは
当時の日本政府と国民でした。
終戦直後の政府の動きは、
まさに「絶望の底で未来を信じる」ための模索だったといえるでしょう。
そこには敗戦という事実を受け入れながらも、
平和な国を築こうとする人々の姿がありました。
そしてその努力があったからこそ、今日の日本の姿があるのだとおもいます。