EXECUTIVE BLOG
2023.5.2
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 島原の乱から 天草四郎の話でした。
何故この話になったのかと言いますと
三大遊郭の一つ 京都島原遊郭の名前が この島原の乱に起因しているから
と言われていたからで
その為には 島原の乱が何かを知らなければならかったからです。
では この島原遊郭はどういう成り立ちで京都にできて 何があって
名前が島原遊郭になったのか??? ですが
江戸時代の島原遊郭の前身は、豊臣秀吉が作った二条柳町の遊女街だったのです。
本能寺の変で織田信長が殺されたあと、山崎の合戦で明智光秀を討った豊臣秀吉は、
洛中を支配下に納め、
そして京都を「聚楽第」という城をを中心とした城下町へと編成しようとしてました。
この聚楽第は 今では跡形もなく遺跡があるだけですね
この話も 又いつかと言う事で、、
町の編成にさいして、
市中に散在していた公家屋敷、寺院、遊女屋をそれぞれ一か所に集中させるように整理しようとしました。
その時に遊女屋が集められた場所が、二条柳町だったのです。
この二条柳町は内裏や聚楽第の近くで、
秀吉は遊女たちを召し抱えたりすることもあったほど密接につながっていたそうです。
その後、豊臣秀吉も亡くなり関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利すると、
徳川家康は京都所司代命じて京都の再編成を始めました。
その事により、
政治の中心は聚楽第から二条城へと移された事で、二条柳町は二条城から遠い
六条へと移転されたのです。
そして「六条柳町」と呼ばれるようになった新たな遊女街は、
厳しい規制の下、それ以外の場所で店を開くことが禁止されました。
その理由は六条柳町を優遇するというより、京の風紀を取り締まるためだったのです。
遊女街が六条柳町へ移転した約40年後に遊女街はまたも移転することになりました。
その移転先は京都の町はずれの現在の下京区西屋敷辺りです。
この移転は突然決定したことから 後に 島原遊郭と言われるのですが
移転の理由は朝廷や公家たちと遊女屋との癒着ではないかと言われています。
幕府はこうした風紀の乱れに頭を悩ませていたのです。
そのため六条柳町の遊女街はさらに町はずれへと移転され、
砦のように囲いまで築かれてしまったのです。
この砦のような様相が
「島原の乱」で一揆勢が立てこもった島原城のようだったからとか
急な移転がまるで島原の乱のように騒がしかったからとかから
その後 島原遊郭と呼ばれるようになったとか
ですが、 詳細は良くわかりません。
一つの地名から 色々な歴史まで見えてくると言う話でした。
あちこちの地名や出来事から歴史を学ぶのも面白いですが
肝心の 地元の事も 良く知らない事があります
例えば 明日から始まる 博多のお祭りについても、、、
それは????
明日に続く、、、、。