
EXECUTIVE BLOG
2025.4.28
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは フランスが自由の国と言われている話でした。
今日もフランスの話が続きます、、、、。
世界中で「自由の国」と呼ばれるフランスですね。
その首都パリは、古くから「芸術の都」とも称えられています。
では、なぜパリが芸術の中心とされるようになったのでしょうか??。
その理由をたどると、フランスの歴史、社会背景、そして人々の価値観の中に、
自然と育まれてきた文化の土壌が見えてきます。
まず、パリが芸術の都と呼ばれるようになった大きな要因のひとつは、
王侯貴族たちの支援です。
特に17世紀、ルイ14世の時代に、
芸術は国家の威信を高めるための重要な手段とされたのでした。
ヴェルサイユ宮殿を築き上げたルイ14世は、
画家、彫刻家、建築家、音楽家を積極的に保護し、王立絵画彫刻アカデミーを設立します。
この制度によって、芸術家たちは生活の基盤を得ると同時に、技術を磨き、
互いに競い合う環境が整えられました。
つまり、国家ぐるみで「芸術を育てる仕組み」が作られたのです。
さらに18世紀には、啓蒙思想が広がり、
「人間の理性と感性を尊重する」という考え方が社会に浸透していきます。
この空気の中で、芸術はますます個人の自由な表現の場となり、
パリのカフェやサロンでは、画家や詩人、哲学者たちが活発に交流を重ねました。
ヴォルテールやルソーに代表される自由な議論の場が、芸術家たちにもインスピレーションを与えたのです。
19世紀に入ると、パリは本格的に「芸術家たちの聖地」となります。
ナポレオン戦争後の復興期、さらに産業革命に伴う都市化の進展により、
パリは国際都市としての存在感を強めていきました。
これに呼応するように、
ヨーロッパ各地から多くの若い芸術家たちがパリに集まります。
当時のパリは、絵画、彫刻、建築、音楽、文学、あらゆるジャンルで新しい表現が次々と生まれ、斬新な挑戦を受け入れる「寛容な都市」だったのです。
とりわけ、19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリ、いわゆるベル・エポック(良き時代)は、まさに芸術の黄金時代と言われています。
印象派のモネ、ルノワール、ドガ、セザンヌといった巨匠たちは、
伝統的なアカデミズムに挑戦し、光と色彩に満ちた新しい絵画表現を切り開きました。
そして彼らの拠点となったのが、パリのモンマルトルやモンパルナスといった地区ですね。
カフェやバーでは、画家、作家、音楽家、俳優たちが自由に交流し、
ジャンルを超えた創作活動が花開きました。
また、20世紀に入ると、
ピカソやマティスといった現代美術のパイオニアたちもパリに拠点を置き、
キュビスムやフォーヴィスムなど革新的な運動を生み出しました。
戦争や政治的混乱にもかかわらず、
パリは常に芸術家たちにとって「新しい表現を試みるための舞台」であり続けたのです。
このような背景の中で、パリには有名な美術館やギャラリーも数多く誕生しました。
ルーヴル美術館はもちろん、オルセー美術館、ポンピドゥー・センターなど、
時代ごとの芸術を豊かに展示・保存する施設が揃っています。
街そのものも、歴史的建造物と現代建築が共存し、
訪れる人々に「生きた芸術空間」としての魅力を伝えているのです。
さらに、パリが芸術の都と呼ばれる理由には、単に偉大な芸術家を輩出しただけでなく、
「誰でも芸術を志していい」という空気が広がっていたことも挙げられます。
身分や国籍にかかわらず、才能ある者は受け入れられ、評価される土壌がパリにはありました。
これこそが、数多くの異国の芸術家たちを惹きつけ、
パリを世界に冠たる「創造の中心地」に押し上げたのです。
つまり、パリが「芸術の都」と呼ばれるのは、
王政時代から現代に至るまで、絶えず芸術を育て、革新を受け入れ、
多様な才能を歓迎するという精神が脈々と受け継がれてきたからなのです。
それは単なる偶然ではなく、歴史と自由を重んじるフランス人たちの誇りと努力の積み重ねが生み出した、かけがえのない文化的遺産と言えると思います。
今日もまた、世界中の若き芸術家たちはパリを目指しています。
絵筆を取り、言葉を紡ぎ、音楽を奏でながら、パリという大きなキャンバスに、
自らの夢を描こうとしているのです。
このように芸術の都パリと言われますが
そこに憧れ 芸術活動していた アノ人は
不遇な時代を過ごします
しかし 死後に、、、、、、
の話は
明日へ続く、、、。