EXECUTIVE BLOG
2019.11.3
高光産業株式会社 妹尾八郎です。
昨日からの続きです
何故 山形庄内に西郷神社があるのか? と言う話ですね。
幕末の戊辰戦争の際は
薩摩と荘内は敵味方でした。
荘内藩の人たちは 戦に負けたあと
自分たちは 会津藩の受けた仕打ちのように
ひどい目に遭わされると思っていたのに なぜか戦後に
言われた言葉が
戦いが終われば同じ日本人ではないですか と
これは
荘内の人々は 西郷さんの指示と考えたのですね。
要するに、敵方ではあったものの
庄内藩の人達は隆盛に惚れたんですね。
そして戊辰戦争後の藩の復興は
隆盛にぜひ指導を仰ぎたいと考えて
藩の若者を合計78名も
鹿児島に派遣(留学)させているんです。
庄内藩の元殿様の酒井忠篤(ただずみ)公は
西郷などの推薦でドイツに兵法留学していますし
藩内では西郷の教えを学ぶ勉強会も始まり
西郷亡きあとは、酒井忠篤(ただずみ)公が
遺訓集の発起人のひとりとなりました。
ご存知の通り
明治維新後 西郷は西南戦争の首謀者として扱われ
最後は城山で自刃しています。
明治20年ころまでの西郷隆盛は どちらかと言うと
犯罪人扱いだったのです。
今でも西郷さんは 靖国神社には祀られてませんよね。
明治政府からすると反乱軍ですから そうなったのでしょうね。
しかし 荘内藩の人々は 大恩人である西郷さんの名誉を回復するために
西郷南洲遺訓なんるもを作り
荘内藩の人々の手でそれを全国へ配り
いかに 西郷さんは素晴らしい人物だったかを広めるのです。
それから日本中の人からも
西郷さんは慕われるようになるのですね、
しかし しかし
本当に 西郷さんはそういう人物だったのか??
荘内藩の人は 真実を知らなかったのでは??
私の独自調査では
どうも その人物像とは違う話もあることを見つけました
では
西郷さんは
何故 長州藩とは違い 荘内藩にやさしく接したのか??
明日へ続く。