EXECUTIVE BLOG
2023.6.9
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
博多商人の気質の話でした
失敗を恐れずチャレンジするのが博多商人気質だったようです。
これは博多は 昔から アジアに向けて交易が盛んな街でしたし
失敗を恐れていては 遣隋使や遣唐使のような危険を孕んだ航海には
出なかったと思います。
今の様に安全ではないのですから 交易を諦めるのか? それとも
危険を顧みずに海外との交易を図るかと考えた場合
諦めるわけにはいかなかったのだと思います
そのような血が今も博多商人に引き継がれているのかもしれません
それで 昨日書いたように 九州帝国大学を誘致するのにも
官に任せるのではなく博多商人が立ち上がって誘致運動を行ったのだと思います。
それぞれに県民性はあるのでしょうが
博多の商人は好奇心も旺盛なのではと思います。
それで 先日からの続きとなっていますが
熊本がかつては九州の中心であった背景には
薩摩をおさえるために 陸軍の司令部を設置したことにあるのです。
やはり軍隊の主力司令部が存在すれば そこには 様々な情報も集まるために
国の出先機関も設けられたでしょうし 物資の流通もあるので そこそこの
産業も発展してくるのは当然だと思います。
それもあり 熊本は軍をはじめとする官の力のおかげで発展した地域となり
それが 後年 民の力で街を発展させていく福岡と差が出来てしまったのでしょう。
ここで 何故 軍のち主力を熊本に置かなければならかったと言うのが
先日からの続きとなります
これは ご承知の通り 薩摩をおさえるためだったのです
薩摩には 明治政府に反対する藩士が多くいました。
その事が原因で 西南戦争も起きているのです。
この薩摩ですが 関ヶ原の戦いでの勇猛果敢な戦いを行っておりました。
結局は西軍が敗退し 薩摩勢も多くが斃れ為
後方に逃げるのではなく、主君を守りながら敵前に向かって逃げたという戦法は
古今東西あり得ない無謀ともいえる戦法でした。
そして 敵中突破で難を逃れて薩摩に戻ることが出来たのです。
この時 家康の本陣の真横と言えるくらいの所を通り過ぎてますので
家康も肝を冷やしたと思いますし その勇猛さを目の当たりにして
薩摩恐るべしと思ったのです。
関ヶ原のあと多くの西軍の藩は取り潰されていますので
薩摩においても お家取り潰しの命令を出してもおかしくないかと思います。
家康は 徳川家が永遠に権力を手にするために 色々な手を考えました。
参勤交代や 武家諸法度などがそうで
総仕上げとして 自分が亡くなった時には
天皇と与した勢力が徳川家に歯向かわないようにするために
最後は自分が神様となり、天皇家と同格になる事を考え
東照宮で大権現として祀られるようにして 反対勢力が生まれない手を
打っていました。
それほどの考えを持っていたのであれば
関ヶ原の戦い以後 何故 力を持っていた薩摩を潰さなかったのか?
潰されなかった薩摩は維新後は明治政府からも危険視されてしまうのです。
それを考えるに 薩摩人気質 ほか 島津家が長く薩摩を支配できたのは
何故だろう? と思います。
この話は
明日に続く、、、。