EXECUTIVE BLOG
2019.10.27
高光産業株式会社 妹尾八郎です
今日からは東郷平八郎が 常識破りの作戦で
ロシアバルティック艦隊を撃滅するはなしでしたが
その話の前に 東郷平八郎も薩摩藩出身なので
その薩摩にまつわる話に話をそらさせて頂きます。
時は宝暦四年(1754年)4月14日に、宝暦治水事件の最初の犠牲者が発生した話です。
インフラ整備である治水工事で「犠牲者」というのもピンとこない話ですが、
当時の社会事情や技術的な問題が絡みあっての悲劇でした。
順を追って、経過をみてみましょう。
一体何の話だろうかと思うでしょうが
薩摩憎しの幕府が 薩摩藩に治水工事を命じたことからの話です。
しかもそれが、長良川・木曽川・揖斐川の治水工事なんです。
この川は通称「木曽三川」とも呼ばれますし、
中学の地理の授業で「これが三角州だよ」「堤防で囲ってあるところが輪中だよ」なんて例に挙げられたりするので、写真をご覧になると「あ、見たことある」と思われる方も多いのではないでしょうか?。
また、戦国時代においては斎藤道三・義龍父子が争った「長良川の戦い」でも有名ですね。
三つの川が合流と分岐を繰り返す、大変複雑な地形のところです。
現代ですらこうですから、江戸時代やそれ以前はいうまでもありません。
それだけに幕府も放っておけず、たびたび工事を命じています。
これは地元の人々のためだけではなく、
「工事には金がかかるから、藩の力を削げて一石二鳥だぜ」という理由が
幕府側にもありました。
江戸時代も中頃になると、どこもかしこも財政は火の車。
それでいて戦をやる気力も技術もほぼ失われていますから、
ある意味経済的な争いに移行していたわけです。
裏に「藩の力を削ぐ」という目的があるわけですから、当然真っ先に狙われるのは外様の大藩です。
その次が親藩の中でアヤシイところ、外様で逆らいそうなところ……という感じになっていきます。
そして、宝暦治水事件の際、この工事を言いつけられたのは薩摩藩だったのです。
全国第二の大藩ですし、加えて関が原の戦い以来、幕府にとってはうまく舵を取りたい相手です。
藩主の島津家は鎌倉時代以来、ずっと薩摩の地を領していますから、徳川家より由緒正しい家と見ることもできます。
そりゃ、幕府からすれば目の上のたんこぶですよね。
遠国だったのが幸いしましたが。
しかし、薩摩藩も決して懐に余裕があったわけではありません。
むしろ、随一の遠国として、参勤交代で莫大な費用がかかっていました。大河ドラマ「篤姫」でも、江戸に行くまでの道のりが非常に長いことは描かれていましたね。
それでも「ご公議である」と言われれば参勤交代だろうが、よその工事だろうが、従わなければなりません。
それに、なにか不手際があれば藩主、もしくはお家が罰されるのは目に見えています。
この命令に背けば藩の取り潰しであることを 薩摩の人々は理解していました
それで薩摩の人々は、歯噛みする思いで見も知らぬ木曽三川に向かうことになるのです。
しかし そこで待ち受けているのは??
明日に続く