
EXECUTIVE BLOG
2026.1.28
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは アメリカにおける日系人の話しでした。
同じ様に 西欧にも同様な日系人がいたのか? の話に進みます、、、。
西欧にも日系人は確かに存在していましたが、
その姿はアメリカの日系人社会とは規模も性格も、
そして歴史的経験も大きく異なっていました。
イギリス、フランス、ドイツ、オランダといった西欧諸国に渡った日本人の多くは、
農業労働者として集団移住した人々ではなく、
留学生、商社関係者、外交官、技術者、芸術家といった個人単位の渡航者が中心でした。
そのため、家族ぐるみで定住する大規模移民はほとんど見られず、
アメリカ西海岸に形成されたような日系人コミュニティや、
世代を超えて受け継がれる苦難の歴史も生まれにくい環境でした。
経済的役割も、土地を耕す労働力というより、
商業、技術、文化交流といった分野に限られ、
社会構造の中で対立を生みやすい立場には置かれていませんでした。
第二次世界大戦が始まると、
西欧の日系人も無関係ではいられず、
逮捕や監視、一時的な拘束といった事例は存在しましたが、
アメリカのように制度化された大規模な強制収容が行われることは例外的でした。
イギリスでは日系人の数自体が数百人規模にとどまり、
開戦直後に一部がマン島の収容所などで一時拘束されたものの、
財産没収や社会的排除が広範に及ぶことはありませんでした。
フランスでは、主に芸術、学術、外交分野に関わる日本人が監視対象となり、
国外退去や抑留の例もありましたが、戦後は静かに社会へ戻っていきました。
ドイツは日独同盟国であったため、日本人は公式には敵国民として扱われず、
比較的自由な活動を続けることができましたが、
空襲や戦時下の困難はドイツ市民と同様に共有していました。
オランダ本国では日系人の人数が少なく影響は限定的でしたが、
旧蘭領東インドネシアでは全く異なる問題が生じており、
これは欧州本土の話とは切り分けて考える必要があります。
西欧において「日系人として歴史に名を残した人物」は、
集団として差別と闘った象徴というより、
個人の思想や文化的影響力によって評価される存在が目立ちます。
その代表例が 岡倉天心 であり、
彼はイギリスやインドを含む欧州の知識人社会を舞台に活動し、
『The Book of Tea』を通じて日本文化を西欧の思想と言語で語り直しました。
彼の姿勢は差別への直接的な抵抗というより、
文明論の次元で日本文化の対等性を示すものでした。
西欧でアメリカほどの「闘いの歴史」が生まれなかった最大の理由は、
第一に人数が圧倒的に少なかったこと、
第二に市民権をめぐる制度的対立が存在しなかったこと、
第三に労働市場や土地所有をめぐる激しい競合がなかったことにあります。
アメリカでは、白人労働市場との衝突、排日法による法的排除、
市民権否定という構造が日系人を政治的主体として立ち上がらせ、
公民権運動へとつながりましたが、
西欧では差別は存在しても、それが集団的闘争へ転化する条件が整っていませんでした。
総じて見ると、
アメリカの日系人史が「集団の苦難と闘いの歴史」として語られるのに対し、
西欧の日系人史は「個人の文化史・思想史」として静かに刻まれてきたものであり、
この違いこそが両者を分ける決定的な特徴と言えるでしょう。