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2021.2.2

解体新書を描いた人?

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日までは フランスの印象派の話から いきなり話は日本へ飛び

平賀源内と佐竹藩の藩士 小田野直武の出会いの話でした。

平賀源内が 秋田を訪れなかったら 小田野直武との出会いも無く

そこから産まれた 秋田蘭画と言う 文化は生まれなかったのです。

いつの時代も出会いに運命を感じますし そのことが元で 歴史も大きく

動くのです。

 

先日書いた フランス革命も たまたま監獄の外を歩いていた夫人が手紙を

拾ったことから始まりますし その夫人が熱き思いを持った人であったが為に

市民運動が大きくなり革命と繋がるのですから

出会いとは歴史を左右しますがそれが運命なのでしょうか?

 

さて秋田蘭画の話に戻らなければなりません。

 

江戸時代半ばの18世紀後半、「秋田藩士が中心に描いた阿蘭陀風の絵画」

ゆえに現在「秋田蘭画」と呼ばれているのです。

そしてその中心的な描き手が、小田野直武だったのです。

では

小田野直武って誰? 思うでしょうが

小田野直武の名を知らずとも、

『解体新書』の図は誰しも見たことがあると思います。

彼は 解体新書の表紙の絵を描いた方なのです。

 

直武は、秋田藩の角館に生まれ、幼い頃より絵を得意としたといわれています。

安永2年に平賀源内が鉱山調査で秋田藩を来訪したことをきっかけとして出会い、

その後、平賀源内と江戸へ上った直武は、源内からの照会で蘭学者に出会う事になり

そこで あの有名な絵になる『解体新書』の挿絵を担当することになったのです。

 

当時の江戸では、ヨーロッパの学術や文化を研究する蘭学がまさに勃興ていた時期であり、また、南蘋派という中国由来の写実的な画風が流行していた時代でした。

 

江戸に出てから32歳で亡くなるまで、直武は西洋と東洋という2つの世界に挑み、

東西の美を融合させ、新しい表現を目指したのです。

その画風は、第8代秋田藩主の佐竹曙山や角館城代の佐竹義躬らへも波及しました。

 

主に安永年間という短い制作期間ゆえに現存作品は少ないながらも、

実在感のある描写、奥行きのある不思議な空間表現、プルシアンブルーの青空など、秋田蘭画という画風を直武は構築して行ったのですね。

 

直武に学んだとされる司馬江漢は江戸の洋風画を描いています。

 

奇人の平賀源内が秋田に行くことが無ければ 秋田蘭画は産まれていませんでした。

 

先ほど書いた直武の弟子が 司馬江漢であるのならば

平賀源内の孫弟子という事になりますね

 

その司馬江漢も相当な奇人だったようです

 

その内容とは、、

 

 

それは

 

明日に続く、、。

 

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