EXECUTIVE BLOG
2020.9.20
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 林子平が書いた 三国通覧図説と言う
後に大切な役割を果たす書を
時の老中 松平定信が すべて廃棄焼却処分にする命令を
出していたのですが
それを 桂川甫周と言う人物が 命がけて保管していたと
言う話でした。
田沼時代は 蘭学や外国の研究も推奨していたのですが
松平時代は まさに真逆の政策で 一気に鎖国へと引き締めを
強化していたのです。
どうでも良い話ですが
定信は公衆浴場の混浴を禁止してます、
と言うことは 江戸のお風呂は 混浴だったのですね、、。
それで 話は戻りますが
桂川甫周は この大切な書を持って長崎に行っているのです。。
当時は鎖国ですから
外国人との交流は 出島に限られていて そこで外国の事を学んでいたのでしょう。
この出島ですが 何故 扇型になったかと言うと
「長崎に今度つくる島の形はいかがしましょうか」と問われた時の将軍・徳川家光が、
自分の扇を出して「これを見本にしなさい」と言ったという説があるのです。
嘘か本当かは分かりませんが こういうことも調べてみると面白いですね
何度も言ってますが 私は歴史学者ではないのであくまでも 勝手な憶測で
書いていますが
桂川甫周は 出島で密かに海外の事を学んでいたと思います。
その後 この出島には 教科書に出て来る
シーボルトが来てますね。
私はずっと 彼はオランダ人と思っていたのですが 実はドイツ人だったのですね
オランダとした交易できなかったので オランダ人と偽って
滞在していたのだと思います。
後年 彼は お滝さんと一緒になり その時の娘さんが後に
有名な女医さんになるのです。
そして 先ほどの 重要な 書物がシーボルトと関係するのです。
これが 又非常に奇跡的な関りになるのですが
どのような関りなのか?
又シーボルトは日本ではどのような功績を残したのか????
これらの話は
またまた
明日に続きます、、。